一生分の運を使い果たしたと言っていい幸運に見舞われた午前中を終え、入学式も恙無く終了した午後。
 放課後の部活動に向かう丸井くんと別れたわたしは、出来る限りの早足で駆け込んだ美術室の活動場所 ――― 旧校舎の美術室で、湧き起こった衝動に身を任せてキャンバスと向き合っていた。

 頭で考えるのではなく、心が赴くままに筆を動かす。下書きなしのぶっつけ本番だ。何故ならこれは“わたし”そのもの。下書きなんて必要なければ、下書き出来るものでもないから。
 ただただ、“今”あるわたしを等身大ありのままに表現する。

 ――― そうする他に、わたしは“わたし”を証明する術を持たないから。


「あのー……」

 遠慮がちな声を掛けられたのは、そんな衝動が落ち着いて手が止まった時。絵が完成した時だった。
 不意打ちに驚いて勢いよく振り返ると、教室の前扉のところで所在無さ気に佇む女の子と目が合う。着ているというより着せられている感のある制服姿から、恐らく新入生だと思う。当然だけど見覚えはない。

「どうされました?」
「……」
「あの……?」
「――― は、はい! あ、あああのっ! その、えっと……」

 何故か瞠目して固まった彼女の様子を訝ると、彼女は弾かれたように返事こそしたものの、それ以降は酷くどもって何かを言い淀み、最終的には黙り込んでしまった。
 一体どうしたんだろう。答え難い質問をした訳でもないのに。
 そもそも入学式終了後の今の時間、大抵の新入生はそれぞれ活躍目覚まし運動部を中心に、各々目当ての部活動を見学して回っているはず。それがどうしてこんな旧校舎にいるのか、考えたところで思い付く理由は一つしかなかった。

「もしかして、迷われたのですか?」
「……えっ?」
「外へ行きたいのでしたら、出口はあちらにある階段を下りて左に曲がった先です」
「ち、違います! あ、あたし、美術部を見学、したくて……」

 だけど実際は予想と異なり、二度目の不意打ちを受けたわたしは目が点になった。
 一瞬何を言われたのかわからなくて、遅れて理解が追い付いても、実感が伴わないから信じられなくて。思わず「本当ですか?」と確認すると、彼女はわたしの問いに戸惑った様子を見せながらも大きく確と首肯した。
 全く予測していなければ、想像すらしていなかったこの事態に、今度はわたしの方が大いに戸惑う。

「……一先ず、中へどうぞ」
「は、はい! 失礼します!!」

 取り敢えず出入口にいつまでも立たせているのは悪いので、中へ招き入れる。
 手近な椅子を出して座ってもらおうとしたけど、今の今までキャンバスと向き合っていたわたしの手は画材で汚れていたため思い留まる。代わりに自分が座っていた椅子を明け渡し、少しの間待っていてもらえないか、わたしは彼女にお願いした。
 彼女が頷くのを確認してから、御手洗いの水道へ向かうべく美術室を出る。

(びっくりした……)

 教室を三つ過ぎたところで小走りになっていた歩調を緩め、わたしは無意識に握り締めていた両手を開いた。
 いくら今が見学の時間でも、まさか美術部を見学に来る人がいるなんて思ってもみなかった。顧問から以前聞いた話では、美術部への見学者は例年限りなくゼロに近く、入学式後のこの時間ともなれば皆無ということだったから。先入観に捉われて見当違いな誤解をした自分が恥ずかしい。彼女には失礼なことを言った。
 でも唯一の例外は去年の今日。先述した理由からこの日活動していなかった美術部の所在を求め、そうとは知らずに顧問の許まで訊ねに行ったわたしだけだったと。そう、聞いていたから……。

 だから正直、わたしの胸中は驚きと疑心が五分五分だった。
 それにきっと、わたしの第一印象はよくなかっただろうし、これまでにも幾度かあったように、早くも嫌われている可能性がある。

 備え付けの石鹸で手を洗い、ハンカチで水気を拭き取りながら顔を上げた目の前。正面の壁に取り付けられている鏡に映る自分は、そんな暗い思考を物語るように、一時期とても見飽きた顔をしていた。
 変化どころか成長もしていないそんな自分が、無性に虚しくなる。
 わたしは目を背けるように、絵を描く邪魔にならないように縛っていた髪を解き、軽く首を振った。


 それから急ぎ足で美術室に戻ると、わたしは三度驚かされた。美術室にはもう二人、こちらも新入生らしい男の子と女の子が増えていたからだ。
 三人は先程わたしが完成させた絵の前に集まり、何だか声を掛け難い雰囲気を漂わせている。

「――― あ、センパイ……」

 出入口のところで躊躇っていると、最初にやって来た女の子がわたしに気付いた。さっきとは立場が逆だ。
 他の二人も一緒に振り返り、直後に瞠目する。突き刺さる視線はしばらく前までよく感じていた類いのものだった。久し振りで少し落ち着かない。

「お待たせしました。ところで、そちらの御二方は?」
「え、あ、ごめんなさい! 勝手に入ったりして……!」
「いいえ、構いませんよ。もしかして、あなた方も見学にいらしたのですか?」
「はい、そうです」

 咎めるような言い方になってしまった所為か、新たに増えた女の子は最初の子と同様に吃り、だけど男の子は対照的に落ち着いた態度だった。
 彼の肯定に便乗する形で、女の子も何度も頷く。

「そうですか。では改めまして、ようこそ美術部へ。わたしは二年のと申します」

 平部員の身で偉そうな言い方とは思ったけど、部長以下四人の先輩はいずれも不在のため仕方ない。
 部長たちに代わって歓迎し、わたしは意識的に笑みを作った。だけど引き攣っている気がする。

、先輩……?」
「あの、センパイってもしかして、さん、ですか?」
「えっ、ええ。そうですけど……」

 すると苗字しか名乗らなかったのに何故か下の名前を言い当てられ、わたしは驚いた。まさか知り合いだったのかと、同時に身体が強張る。
 だけどそんなわたしの警戒を余所に、女の子二人は今度はぽかんと口を開けて固まった。先程から一体どうしたのか、それを訝る間もなく、男の子が急に一歩前へ出た。頭一つ分ほど下から睨むように見つめられてたじろぐ。

「握手してください!」
「――― えっ?」
「ちょっ、ズルい! センパイ、あたしも! 握手してください!」
「わ、私もお願いします!!」
「あの、え、えっと……?」

 だけど男の子が告げたのは先程見学を申し込まれた時以上に予想外な言葉で、再び男の子に便乗した女の子たちまで突き出して来た三つの手に、わたしは困却するしかなかった。
 一人でも充分圧倒されているのに三人に迫られ、反射的に後退りする。

「み、皆さんわたしをご存知なんですか?」

 逃げ腰になりながらも、気に掛かった点についてどうにか訊ねると、三人は異口同音に肯定した。
 何でも男の子は幼い頃から絵を描くのが好きで、去年の夏休み明けに開催された市主催のコンクールで。女の子二人は去年の海原祭の美術部のブースで。それぞれわたしの絵を観て、その、ファンに、なったのだそうだ。は、恥ずかしいことに。

 そんな熱意と言う名の気迫に満ちた迫力で頼まれては、いくら何でも断ることができなくて。わたしは男の子から順に握手を交わした。
 だけど単なる一般人の一人に過ぎないわたしとの握手一つで、まるで芸能人とするそれのように喜ばれるのは、嬉しいというよりやっぱり恥ずかしかった。
新学期 003*100814