暦の上では既に春を迎え、桜の花が芽吹き出しているとはいえ、まだまだ肌寒さが残るこの時季。
 複雑に入り混じる期待と不安で昨夜はなかなか寝付くことができず、それに引き摺られる形で予定より一時間も早まった目覚めに、わたしは深いため息を零した。
 目が覚めた瞬間に眠気は弾け飛んでいたから、一時間という時間の微妙さも相俟って二度寝することもできず。渋々とベッドを出て支度を始めれば、芋蔓式で予定が繰り上がったために暇を持て余す結果になってしまい、更にため息が出る。
 暇ができるとあれこれいろいろ考えて、特にマイナス方向に思考が働くから嫌なのに。

(憂鬱だなぁ……)

 理由は簡単。今日から新学期が始まるからだ。
 丸井くんに“人見知り”と評されたわたしは、確かに人間関係が不得手だ。自覚はある。自覚があるからこそ、一年間掛けても馴染めなかった環境がリセットされる“クラス替え”というイベントが、とにかく憂鬱だった。
 これで丸井くんと同じクラスだったら万々歳けど、一学年に十クラス以上あるんだもの。望みはとても薄い。もし仮に同じクラスになれたとしたら、それはまさに奇跡だ。

(同じクラスなんて高望みはしないから、せめて教室が近いといいな)

 一年生の頃は端と端ですごく離れていて、合同授業で一緒になることもなかったから、今年はそんな経験ができればすごく嬉しい。教室が近ければ、前より頻繁に簡単に丸井くんと会えるし、会いやすくなる。
 だけどやっぱり、一番の望みは、同じ教室で一年間を過ごすことだけど。


 先月の修了式に受けた連絡によると、新しいクラスは、昇降口の側に臨時に掲示板を設けて発表されるらしい。
 だけどわたしが登校した時、昇降口には掲示板こそ立っていたけれど、まだ何も貼り出されてはいなかった。もともと早めに登校するつもりではいたけど、予定が繰り上がって更に早く来てしまったから、当然と言えば当然だった。
 だけどこんなに早い時間に登校しているのは、どうやらわたしだけではないみたいだ。
 午後にある入学式の後、学校側も力を注ぐ部活動の見学を新入生が早速できるように、始業式の今日も部活があるのは去年と同じだけど、運動部の方は朝の練習まであるらしい。野球部やサッカー部など、熱心な姿が校庭には見られた。

(ということは、もしかして……)

 わたしは昇降口に背を向け、東門に向かった。
 そして校舎と東門の途中にある目的の場所が近付くにつれて、可能性が確信へと変わっていく。

 意気込みある掛け声。小気味良いインパクト音。人が多くいるからこその賑わい。
 学校側の熱意を物語るように広く場所を取って設けられるテニスコートには、目にも鮮やかな芥子色のユニフォームを着た人たちが沢山いた。思った通り、全国区として名高いテニス部も朝の練習中だ。
 猛者としての気迫か、何だか近付き難い雰囲気を感じる。それでなくとも、わたしなんかが近付いて邪魔しては悪いので、わたしは離れたところからフェンスの中に目を走らせた。

(あ、丸井くんだ!)

 そして馴染みのある赤色を見つけて、一気に心が弾む。
 一緒にいる褐色の肌の彼は、ジャッカル桑原くんだろう。輪から少し離れたところには陽の光を反射させる銀髪の彼、仁王くんがいて、その彼に話し掛けている眼鏡の人は、柳生くんだ。
 更に視線を巡らせると、先輩と思しき人たちと一緒にいる幸村くんも見つけた。側にいる二人と合わせて三人、周りより少し背が低いから、多分同い年同士なんだと思う。――― あ、もしかしてあれが最近噂になっているっていう“三強”? 幸村くんと、サナダくん、ヤナギくん、だったかな?

 その後も、わたしはテニス部の練習風景を隠れて見学した。
 遠目だからはっきり見える訳ではないし、掛け声以外の声は聞こえないけど、みんな本当に楽しそうで。テニスが好きなんだって、それが目に見えて伝わる光景だった。何だか見ているわたしまで楽しくて、気付けばもう終了の時間らしい。
 解散の挨拶の後、すぐにコートを出る人たちとコートに残って片付けをする人たちとで、彼らはそれぞれ動き始めた。登校するにはまだ早いくらいの時間だけど、始業式だから早く切り上げたのかもしれない。

 このくらいの時間なら、そろそろ掲示板に新しいクラスが貼り出されている頃、かな?

 丸井くんの姿を見て折角持ち直した気持ちが、クラス替えのことを思い出してまた憂鬱になるけど、わたしと顔を合わせてテニス部の人たちを嫌な気分にさせては申し訳ないし。
 踵を返して立ち去ろうとした、そんなわたしに、だけど思わぬ声が掛かった。

サンじゃなか」
「――― え、あ、仁王くん……?」

 解散したばかりで、他の人たちはまだフェンス付近にいるのに。
 いつの間にか近くに来ていた仁王くんは、底の見えない瞳で「おはよーさん」気軽に声を掛けて来た。反射的に「おはようございます」と軽く頭を下げて挨拶を返す。

サンがテニス部見に来るなんて珍しいのぅ。丸井に用事か?」
「……いいえ、違います」
「ほーか」

 クラス替えの結果によっては、また端と端のクラスになるかもしれないから。その前に一目丸井くんの姿を見ておきたかったわたしの、一方的な感情で来ただけだ。
 否定するわたしに、自分から訊ねたはずの仁王くんは興味がなさそうに相槌した。
 丸井くんを介して知り合ったバレンタイン以来の対面で、当時大した言葉を交わすこともなかったけど、やっぱりわたしは嫌われ者みたいだ。
 練習が終わる前に立ち去っていれば、こんなわたしに、仁王くんが儀礼的に声を掛ける面倒をせずに済んだのに……。

「練習、お疲れ様でした。わたしはこれで失礼させていただきます」
「――― ーッ!!!」
「え? あ……」

 先程より深く頭を下げて、今度こそ踵を返そうとしたわたしを、耳馴染みのある声が呼び止めた。
 見れば仁王くんの向こう、部室棟である海林館の方からバタバタと慌ただしく、駆け付ける人の姿があって……。

「丸井、くん……?」
「はよ、! ほら、一緒にクラス発表見に行こうぜぃ!」
「わっ、ちょっ! 丸井くん!?」

 肩にテニスバッグを背負う片手にブレザーとネクタイを持ち、如何にも大急ぎで着替えて来たという、ワイシャツのボタンが碌に閉まっていない恰好で現れた丸井くんは、駆け付けた勢いのまま反対の手でわたしの手を掴み走り続けた。
 練習後とは思えない速さに足が縺れそうになるけど、必死に後を付いて行く。
 そして進行方向にちらほらと人の姿が見られる昇降口が見えた頃、丸井くんは足を止めた。

「ここまで来れば大丈夫だろぃ」
「な、に……が……?」
「何ってそりゃ ――― って悪い! 大丈夫か!?」

 後ろを確認して不思議なことを言う丸井くんは、一〇〇メートルにも満たない距離を走っただけで息切れしているわたしにぎょっとして、優しく背中を擦ってくれた。
 お陰で少しずつ、呼吸が落ち着いてくる。

「ヘーキか?」
「うん、大丈夫。ありがとう。――― あ、おはよう、丸井くん」
「お、おう。ところでさっき、仁王に何もされなかったか?」
「仁王くんに? 別に何もなかったよ。寧ろわたしの方が仁王くんにわざわざ声を掛けさせて、迷惑を掛けてしまって……」

 わたしの言葉に丸井くんは「はあ?」と顰めっ面で首を傾げて、少し沈黙した後「まあ、何もされてねぇならいいや」と息をついた。

「で? は何であんなとこにいたんだ? すっげー目立ってたぞ」
「え、嘘っ!? 隠れてたはずなんだけど……」
は存在感があっからなぁ。あんま隠れられてなかったぜぃ」

 それで、何か用事でもあったのか?
 ボタンをちゃんと閉め、ネクタイを締めながら訊ねる丸井くんから、わたしは目を逸らした。

「その、今日は新しいクラスが発表されるから。丸井くんとはきっとまた、違うクラスだろうし。一目、丸井くんの姿を見ておきたくて。そうすれば、頑張れる気がしたから、その……」
「…………って、頭良いのにバカだよな」

 ひ、酷い。しみじみ言われた。わたし自身ネガティブだとは思うけど、丸井くんに指摘されるとダメージが大きい。落ち込んで項垂れると、その視界に丸井くんの手が差し出される。
 顔を上げると、ブレザーを着てきちんと身形を整えた丸井くんが眩しく笑っていて、「ほら」差し出した手を揺らす。

「またクラスが離れてたって、関係ねぇだろぃ。つーか、結果見る前から何で違うクラスだって確定してんだよ。見てみねぇとわかんねーじゃん?」
「でも、十クラス以上もあるんだよ? 同じクラスになれる確率なんて、本当に奇跡で」
「じゃあ俺は、その奇跡を信じるぜ」

 差し出されていた手は自らわたしの手を取り、昇降口に向かって導いた。
 そしてテニス部と同じように、早めに練習を切り上げた人たちが続々と増える掲示板の前で、わたしたちは笑い合った。
新学期 001*100416