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** 仁王雅治 三日前の嵐から元の梅雨空に戻った夕暮れ時。 じゃが空にはいつ降り出すともしれない雨雲が居座り続け、辺りは夜と見紛うほどの薄闇に包まれてちょった。 こんな状況じゃ。通常なら校庭からは運動部の掛け声、校舎からは吹奏楽部の練習音などが聞こえてくるとこじゃが、午後六時を前にして構内は既に静まり返っちょる。廊下を一歩進むだけで、上靴とリノリウムの床の擦れ合う音が大きく響く。 じゃけえ、この静寂は無遠慮な物音によって引き裂かれた。 ガラッと、今ばかりは耳に付く音が響く。戸が開かれたその一室から現れたのは、脂ぎったボサボサの髪に、如何にもそれらしい白衣を着、眼窩の深い目許には太い黒縁眼鏡を掛けた男。 男は如何にも神経質そうな見た目の印象に違わず、念入りに周囲を確かめてから動き出したんか、しばらく時間を置いてからようやく足音が聞こえ、ガラッと今度は戸の閉められる音がした。履き潰されたサンダルのペタペタという音が徐々に遠ざかる。 男の気配が完全に消えてから、男が出て来た教室を確認し、薄く開いた隙間に身体を滑り込ませる。 部屋には板書で使用する巨大な三角定規や分度器、その他数学関連の書籍が詰まった棚などがあった。出入口に掲げられていたプレートの通りなら、ここは数学科準備室なんだから当然じゃ。 そもそも海志館とも呼ばれるここ一号館は、敷地を同じくする高等部と中等部で共有する各教科の準備室の他、資料室や和室と言った特殊教室が集められている棟だ。これについては何ら問題なか。 ――― 問題なんは、何故“生物”の教師が“数学科”準備室から出て来たのか、っちゅーことじゃ。 まあ、察しはとうに付いちょる。 何故か窓際に置かれた一脚の椅子に腰掛ければケツの下から温もりが感じられて、不快感にすぐ立ち上がった。そうして改めて、窓の外に目をやる。 西側に面した窓からは本来なら沈み行く夕陽が見えるはずじゃが、今日の天気じゃ空は一面の暗雲。じゃけえ、俺の目には煌々と灯る明かりが映る。ここ一号館の西側に建つ海遊会館 ――― 通称・旧校舎とも呼ばれる建物から零れる光じゃ。 「ビンゴ」 にやり、口角が上がる。 踵を返した俺は先に出た男の後を追うように準備室を後にした。向かう先は無論、旧校舎じゃ。 人目を避ける必要もなく旧校舎にたどり着き、今の校舎より規模が小さいだけで造りは同じ昇降口を抜けて、目指す先に迷いはなか。 そうして目的の部屋まで角一つっちゅーところまで来た頃には、薄闇に包まれる廊下に荒々しい物音が響いちょった。どうやら事前に仕込んでおいた策にまんまと嵌まってくれたようじゃな。 最後の角を曲がり、この旧校舎で唯一明かりが灯る音の発生源 ――― 美術室の前に到着する。そして携帯のカメラ機能を起動させれば準備万端。一気に戸を開け放ち、驚きに振り返ったところを一枚。そのまま呆けてるところを、手許や足許の惨状を含めてもう五枚ほど撮影する。これだけの証拠があれば充分じゃろ。 「さて、訊くまでもないが、これはどういうことかの?」 「仁王……!!?」 そうして白々しく問えば、男 ――― キモシタは気色ばむ。その手で引き裂かれ握り潰された紙片がぐしゃり、音を立てた。 こちらが仕向けたこととは言え、愉快なくらい狙い通りの展開じゃ。 「残念じゃが、ちゃんなら最終下校時刻のチャイムが鳴った時点で帰ったぜよ。お前さんより先に俺が声掛けしてのう」 とは言え、俺がした事は極単純。 「にしても、随分派手にやったもんじゃ。まあその絵一枚破いたところで、ちゃん曰く日記代わりらしい絵にお前さんが登場することはないし、ちゃんの描く人物画の九分九厘が丸井であることに変わりはないがの」 ちゃんが帰宅後の無人の美術室の電気を点け、まるでスケッチの途中であるかのようにセッティングした。それだけじゃ。 ちゃんの部活風景を見学したいっちゅー名目で、急遽用意したスケッチブックに丸井の絵を描いてもらい、それを使って昼間の一件で既にイってしもうちょるキモシタを、更に煽るような真似はしたがの。 実際に“そう”動いたのは、他ならぬキモシタ自身じゃ。 「本当に憐れじゃのう。ここら周辺の放送電源を切って、ちゃんが最終下校時刻に気付かんよう細工し、遅くなったところへ声掛けして“いい先生”を自作自演したり」 「……、……れ……」 「ちゃんの行動範囲を張って接触回数を増やしたり、今や唯一の接点じゃった担当授業もなくなってしもうた分、必死になってちゃんの意識に残ろうとしちょったのに」 「だ、……れ……」 「何をしたところで、ちゃんにとってお前さんは一厘のその他大勢にすら含まれんのじゃから」 「黙れえええええええええ!!!!!」 咆哮。正にそんな感じじゃ。 激情に身を任せた突進は直線的で読みやすく躱すのは容易じゃったが、俺はこれを敢えて正面から受けた。 強い衝撃と共に上体が傾ぎ、背中を強かに打ち付けひっくり返る。そして腹の上にはキモシタが馬乗りになり、胸倉を掴む手が気管を圧迫する。 「は特別で孤高の存在なんだ!! 本来なら貴様らのような下等で穢らわしいものには、姿を見ることも声を聞くことも、同じ空気を吸うことさえも赦されない!! それを! 身の程を弁えない貴様のような奴が貶めた!!!」 「ぐっ ―――!!」 「たとえ苗字だとしても、俺以外の男の名をが呼ぶなど決して赦されぬのに名前を呼ばせ! 剰え、貴様までの名前を馴れ馴れしく呼ぶなど冒涜!! その上! 恐れ多く俺も未だ触れられていないあの柔肌に触れたなど!! 断じて赦さん!!!!!」 発狂っちゅー表現が相応しい状態に加え、もとより頭がイカレちょる男の言うことじゃ。支離滅裂なんは当然で、だがその分、立て前にもなっとらん立て前の中に紛れたそれらは、それこそ紛れもないキモシタの本音じゃった。 そう考えると、意図しようとしていた嘲笑が意図せずとも零れた。 「はっ、……はは、はっ……」 「何がおかしい!!?」 「っ、ほん、ま……哀れじゃ、な……」 恐らく、キモシタも本当は気付いちょっる。 自分がちゃんに受け入れられていないこと。 寧ろ嫌悪感に等しい生理的な拒絶をされていること。 じゃが盲目に恋慕し執心する相手に否定されていることを認められず、それがこの論理破綻な神聖視に繋がっちょるんじゃろ。 じゃから、教えてやる。 「のう、……知っとる、か?」 お前もまた俗な目でちゃんを見てる、ただの“男”だと。 「ちゃんの、背中……左の肩甲骨の、とこ……縦に二つ並んだ、黒子があるじゃよ」 「―――――」 空白は一瞬。そして刹那、爆発した。 何を言うとるのか最早形になっとらん怒号と共に、痩躯とはいえ大人の男一人分の体重が首筋一点に圧し掛かった。完全に気道が塞がれ、いくら身構えていたとはいえ急所を襲った攻撃に視界が白む。 じゃが、重心が前に傾くこの時を待っとった。人間が持つ防衛、生存本能が、考えるより先に身体を動かす ――― 不意打ちに間抜けな顔をしたキモシタが、俺の上を過ぎ、吹っ飛んだ。 正当防衛を主張できるこの展開を前提に、机や椅子を端へ寄せてある程度の場所を確保しとったが、理性がある状態での推測を本能は軽々凌駕しとったらしい。キモシタの身体は避けてた机や椅子の中に突っ込んだんか、激しい崩落の音がした。 しかしこちらとて、必要な嘘をついた所為とはいえ、あわや絞殺されるとこだったんじゃ。人のことを気にしてる余裕はなく、しばらく咳き込んだ。生理的に滲む涙で視界が滲んどる。 一転した場の静けさに気付いたのは、ようやく呼吸が落ち着いた頃じゃった。そこで初めて、巴投げの要領でぶっ飛ばしたキモシタの様子を窺えば、崩れた諸々に埋もれる形で気を失っとった。一応確認したが息はしとる。 「……だる」 取り敢えず一段落着いたと言ってええ状況じゃろう。無意識に張り詰めていた緊張が解けた途端、どっと疲れがきた。 ……ちゅーか、何で俺は他人のためにこんな身を挺する真似をしとるんじゃろ。別に薄情なつもりはないが、土日のたった二日間の付き合いでここまでするほど、愛情深いつもりもないんじゃが。 らしくない自分の行動を今更ながら思い返していたその時、携帯が震える。今正に考えちょった相手からのメールじゃった。内容を確認し、返信の画面やなく登録されて間もない番号をすぐさま呼び出す。 『も、もしもしっ』 たった今メールが来たことを考えれば、まだ携帯を握っとったんじゃろ。二回目のコールが鳴る前に電話は繋がった。 同時に、俺の中でも“何か”が繋がった気がした。 「ちゃん?」 『は、はい!』 「……ちゃん」 そんな形にも言葉にもならん“何か”に戸惑って、知りたくて、けど口から出たのはちゃんの名前だけで。 アホみたいに自分の名前を繰り返し呼ぶだけの俺に、電話の向こうでちゃんが困惑しちょるのが感じ取れた。じゃけえ、応えてやることができん。 『雅治くん?』 そしたらちゃんが、俺の名前を呼んだから。 不明瞭だった“何か”が明瞭なカタチになって、すとんと落ちた。 (嗚呼、成る程……) 事は至極、単純明快じゃった。 自分はそんな単純な人間じゃないと思っとったが、高々十数年しか生きてない自分は所詮、ケツの青い中坊でしかなかったわけじゃ。 「……のう、ちゃん」 『は、はい!』 声の調子から見えない相手に姿勢を正すちゃんの姿を想像し、微笑ましい気持ちと一緒に、言葉はすんなり零れた。 そんな中でも、どんな種類のカタチをしちょるのかまでは、まだわからんけれど。 「すいとうよ」 ――― これが、“いとしい”ということか。 五月雨沁みる 005*150227
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