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** 仁王雅治 皮肉を込めた渾名なんぞとは到底結び付かん、春の陽気に綻び出した花のような笑顔を見つめながら、考える。 いくら俺に手を引かれちょったからっちゅーても、こんな人気がない場所へのこのこ付いて来るのは如何なもんか、と。 まあ人気がないちゅーても、外部から招いた講師による講演会の折りにしか使用されることがまずないここ立海ホールの裏手は、交通量の多い通りに面しちょるし。学校の正面玄関に当たる見栄えを考慮してか、囲いは塀やなく柵になっとるから、言うほど人目に付かん場所でもないがの。 それでも、外部からの目隠し代わりに植えられた木の陰なんかは、充分な死角を作り、意外な穴場になっちょるが。 ちゅーことで、サンの無防備さについては後でしっかり注意しとくとして、一先ず今は別の問題じゃ。 丸井とおる時に見せちょる笑顔とはまた違う笑顔に水を差すのは惜しかったが、今の内に確認しておきたいことがあったし、仕方なか。 「……のう、サン」 そう思って呼び掛けると、サンは何故か弾かれたように顔を上げ、丸々瞠いた瞳に俺を映した。 その思わぬ反応に俺の方こそギョッとする。 「え……あ……ご、ごめんなさい。わたし、てっきり、あの……ごめんなさい……」 「……」 すると今度は透き通るようなその肌を赤らめ、恥じらいを隠すためか俯いた。そんなサンの縮こまる頭を見下ろして、この反応の理由をしばし考える。 今俺はサンの名前を呼んだだけじゃし、それについて“てっきり”っちゅーことは、つまり、えっと……? 「……ちゃん?」 「ッ! は、はい!!」 まさかとは思いつつも、試しに今度は苗字やなく名前で呼び掛けてみれば、サンはまた弾かれたように顔を上げた。 じゃが俯く前よりも頬を紅潮させたその顔には今や、先の驚愕なぞ微塵も残っとらん。あるのは一つ、隠し切れんほどの喜色満面じゃ。 「――― ぷっ、く、っ、はははははっ……!!」 理解した瞬間、ツボった。柄にもなくキュンとした。 何じゃこの可愛い生き物。こんな初々しい人間の一体どこが氷なもんか。薔薇なもんか。名付けた奴の目は節穴以外の何物でもなか。 「に、仁王くん?」 「っ、だ、大丈夫じゃ。ちゅーか、仁王くんじゃないじゃろ?」 突然腹を抱えて笑い出した俺に戸惑ってあわあわするサン ――― ちゃんにそう指摘してやれば、ちゃんはまた紅潮して視線を泳がせた。 だから俺はどうにか笑いを納め、沈黙で先を促してやる。 「……ま、……まさは、る、くん……」 …………キた。今のはぐっとキた。 形容としては綺麗なちゃんが今ばかりは可愛らしく、頬を赤らめて恥じらいのこもった上目遣いと、躊躇いから舌足らずに拙くなった声。で呼ばれた、他でもない俺の名前。これでぐっと来なかったら、そいつは男じゃなか。 俺なんかキュンとするあまり言葉が出なくて、代わりにちゃんの頭を撫で繰り回してやった。そしたらちゃんはちゃんで、照れ臭そうにしながらも嬉しそうにすり寄ってくるもんじゃから、危うくキュン死にするかと思ったわ。 しかもどうやら、当のちゃんはこれらを無自覚でやっとるから困ったもんじゃ。 ――― って、本題を忘れちょった。 「あー……ところで、ちゃんに訊きたいことがあるんじゃが、ええかの?」 「は、はい。何でしょうか?」 「そんな畏まらんでも。ただ、さっきキモシタが言ってたのは、どういうことなんかなーと思っただけじゃ」 「きもした……?」 生徒の間じゃ当たり前になっとる呼び名じゃから、ついいつもの調子で呼んでしもうたが、ちゃんには文脈から固有名詞であるっちゅーことしかわからんかったんじゃろ。 精巧な人形めいた顔立ちと身に纏う空気から近寄り難い印象を受けるちゃんは、その生徒たちとの接触が少ないからこういった常識に疎そうじゃし、そんなちゃんにとって最も接触が多い丸井も、わざわざこんな情報を教えんじゃろうしのう。 首を傾げ、そんな名前の人間がいたかと考えてるちゃんの真面目さに、苦笑が漏れた。 「さっき廊下で呼び止められたじゃろ? あの教師のあだ名じゃよ」 「 「ちゃんは断った、と」 「はい。確かに天候は荒れていましたが、自宅までは歩いてすぐですから。先生の手を煩わせる訳にはいかないと思ったので」 「ナルホド。ちなみに、キモシタはちゃんにはいつもあんな感じなん?」 「……そう、ですね。一年生の頃から、部活動に熱中し過ぎて下校時刻に気付かないわたしのことをよく気にして、気遣ってくださいます。進級してからは別の先生が授業を担当されているので接点は減りましたが、それでも廊下で会えば必ず声を掛けてくださる、いい先生です」 ふむふむ。ほーかほーか。 確かに、ともすれば青白くも映る色白さが見せる儚さの通り、俺が一晩寝ただけで治った風邪に土日の丸二日間苦しまされたちゃんの弱さは、近寄り難さと同じくらいの庇護欲をそそられる。 じゃけえ、だからと言って去年一年間授業を担当した何十人もいる生徒たちの中で、たった一人、ちゃんにだけ“いい先生”っちゅーのは、教師としてどころか一人の人間としても問題を通り越して異常じゃ。大体アレがほんまに“いい先生”なら、キモシタなんてあだ名が付くわけなか。 現に横槍入れた俺のこと、思いっ切り睨み付けとったし。更にカマかけでちゃんの名前を呼べば射殺さんばかりになって、ちゃんも俺の名前を呼んで返した瞬間には狂気すら感じた。 「――― だけど」 あの様子じゃと明日、早ければ今日の内に何か仕出かしそうなキモシタにどう対処したもんかと考えとった時。 もう終わったと思っとった話を、ちゃんは前述に否定的な意味を成す接続語で繋いだ。が、何故かそれ以上の言葉が続かん。 言いたいことが形にならんだけか、それとも理性が働いて口を噤んだんか。もし仮に後者の理由だとしたら、一体何を言おうとしたのか。 そこでふと、一つ思い当たることがあった。 試しに何も言わずにちゃんへ向かって手を伸ばせば、気配に気付いたちゃんは俯きがちじゃった顔を上げ、まるで差し出すみたいにすぐに下を向いた。お望み通り頭を撫で、そのまま髪を梳き、毛先を指先に絡める。指通りのええ濡れ羽色の髪は、こちらを誘惑するように解けた。 一連の流れをちゃんは自ら進んで受け入れた。 じゃけえ、さっきはどうじゃった? 今の俺と同じようにキモシタがちゃんの頭に向かって手を伸ばした瞬間、ちゃんはどうしとった? あの時、どうして俺は二人の間に割り込んだ? ――― それこそが、何よりも明白な答じゃ。 「……よし、わかった」 「え? ……な、何が、ですか?」 「それはナイショ。それより、そろそろ予鈴が鳴る頃じゃ。教室に戻るとするかの」 そう言って俺が立ち上がれば、ちゃんは手許に視線を落とし、今日こうして俺らが昼を一緒にした理由 ――― ねこの顎を撫でた。 「またね」とちゃんが取り付けた約束に、ねこは「にゃあ」と文字通りの猫撫で声で応え、茂みの中に姿を消した。 五月雨沁みる 004*150209
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