台風の齎した貴重な晴れ間がとうに元の梅雨空に戻ってしまった月曜日。お昼休みを告げるチャイムが鳴り、学校全体が俄かに騒がしくなり出した頃だった。
 同じクラスで隣の席という僥倖に見舞われて以降、お昼を一緒にしているブン太くんが早速いつもの大きなお弁当箱を取り出したのを見て、わたしは今日の自分が如何に周りが見えていなかったのかを思い知らされた。だから慌てて口を開く。

サン」

 けれど、上がった声は彼の方がわずかに早かった。

「仁王くん」

 空気を震わせる寸前で一旦動きを止めた口は、呼ぼうとしていたのとは別の名前を紡ぐ。呟くような声量だったにも関わらず、それは思いの外教室内に響いた気がする。
 振り返ると、右手にコンビニの袋を提げ、反対の左手をひらひら振る仁王くんが教室の戸を潜り、こちらへやって来るところだった。慌てて立ち上がって出迎えれば、初対面の頃にはなかった身長差ができた仁王くんは、わたしの頭をその大きな手で撫でた。
 この行為自体は初めてはないし、特に仁王くんには土日の二日間だけで何度撫でられたかわからない。けれど一向に慣れることがなければ気恥ずかしくて、だけど嬉しく思うのも確かで。まず間違いなくおかしな表情をしているだろう顔を、わたしは俯くことで隠した。

「迎えに来たぜよ」
「ご、ごめんなさい、わざわざ……」
「元は俺が言い出したことじゃ、サンが謝ることじゃなか。それに、こういう時は?」
「え、えっと……あ、ありがとう、ございます」
「ん、よくできました」

 そう言って、仁王くんは更にわたしの頭を撫でた。
 その手付きも、表情 も、「いい子いい子」と言う声も、すべてが優しさに満ちていて、わたしは顔が熱くなるのを自覚した。
 より増した気恥ずかしさと嬉しさに仁王くんを直視できず、わたしがますます俯くと、意地悪にも仁王くんは身を屈め覗き込んできて「サン、真っ赤じゃ。可愛いのう」と指摘して頬をつついてくる。だけどそんな仕種すら優しいから、わたしの顔は一層熱くなった。

「まあサンを愛でるのはこの辺にして、早く移動するかの」
「は、はい……!」
「ちゅーことで、ブンちゃん。サンは俺がもらってくぜよ」

 そう言った仁王くんは、机の上に用意していたわたしのランチバッグを自分の荷物と合わせて右手に持ち、反対の左手はわたしの右手と指を絡める形で掬い取ると、今さっき潜ったばかりの戸へと踵を返した。当然、手を繋がれているわたしも歩き出す形になる。
 だけどその前に、ブン太くんにまだ伝えられていない言葉を伝えなければいけない。そう思うと、現状での焦りも手伝って回らない頭が捻出できたのは、酷く単純な言葉にしかならなかった。

「ブン太くん、ごめんなさい!」

 そうして教室を後にし、今や諦めの境地に達している視線が何故かいつも以上に刺さるのを居心地悪く思いながら、教室一つ分廊下を進んだ頃。後方から「はあああああああああ!!?」と大きな声が聞こえた。わたしの聞き違いでなければ、ブン太くんの声だったように思う。
 反射的に立ち止まって振り返ろうとしたけど、手を引く仁王くんに「時間がなくなるぜよ」と言われてしまい、後ろ髪を引かれながらも今は諦めるしかなかった。

 目的地は屋外のため、わたしたちは靴を履き替えに、まずは昇降口へ向かった。
 中等部と高等部が併合している立海大の敷地は広いから、行き帰りの移動時間に食事の時間を考えるとあまり余裕はないので、咎められない程度の急ぎ足になっていたのだけど、「」それでも途中呼び止められてしまった。
 流石に今度は立ち止まらない訳にはいかないので、足を止める。

「ああ、よかった。のことだから今日は欠席してる可能性もあると思ってたんだが、無事に登校できたんだな」
「先生……」
「あの後、やっぱり送って行こうと思って追い掛けたんだが、一足遅かったみたいでな。あの台風じゃずぶ濡れで、身体の弱いのことだから風邪でも引いたんじゃないかって、心配してたんだ。見舞いに行こうかとも考えたんだぞ」
「そう、ですか。……ご心配いただき、ありがとうございます。ですが先日も申し上げた通り、そのお気遣いだけで充分です」

 声を掛けて来たのは、先日の金曜日、台風にも放送にも気付かずにいたわたしを心配してくださった、生物の先生だった。
 確かに、体力がないわたしは身体が丈夫とは言えず、体調を崩しやすくて、また先生の推測通り風邪を引いてしまったのは事実だ。だけど学級担任でなければ、今や教科担任でもない先生にお見舞いに来られるのは、聊か困ってしまう。
 あの時、先生の折角のお気遣いを断ったのはわたしであり、結果体調を崩したのも、すべてはわたしの自己責任。先生が気に病むことは一つもないのだから。

「何、遠慮するな。教師が教え子の心配をするのは当然だ」

 言いながら、頭を撫でようとしたのだと思う。
 先生がこちらへ伸ばした手に、反射的に身体が強張った。

「話は終わったかの? 俺ら急いでるんじゃけど」

 だけど、先生の手がわたしに届くことは なかった。
 間にすっと割り込んだ仁王くんが壁になり、わたしの視界から先生の姿が消える。ほっと力が抜けた。

「お前……仁王、だったか?」
「そうじゃけど、それが?」
「それがって、教師に対して何て口の利き方だ。それに俺は今と話してるんだ、邪魔をするな。退け」
「オーコワ。ちゅーか、“ちゃん”とは俺の方が先約じゃ。人の行く手を遮って邪魔しちょるのは、そっちの方じゃろ。それとも、俺らに昼飯抜きで午後の授業を受けろとでも?」

 だけど安堵も束の間。何やら険悪な雰囲気が漂い出してしまい、自意識過剰ではなく自分が原因だとわかるから、わたしは慌てた。
 止めに入ろうとしたけど、まるで引き留めるかのように繋いでいる手にぎゅっと一瞬だけ力が加えられ、思い止まる。そして仁王くんの口から、わざとらしいくらいに強調した苗字ではなく名前を呼ばれた。
 え、と言葉にはしなかったけど驚くわたしに、肩越しに振り返った仁王くんはウインクを一つ投げる。
 わたしの受け取った解釈が、当たっているかはわからない。だけど「のう、“ちゃん”?」答え合わせの時はすぐにやって来てしまった。

「――― うん、“雅治くん”」

 正解、とでも言うように、またぎゅっと手を握られた。

「ちゅーワケで、俺らは行くぜよ」

 そのまま手を引かれて、わたしたちは先生の脇をすり抜けた。
 仁王くんが介入した時には酷く立腹した様子だった先生だけど、引き止められることはなかった。
五月雨沁みる 003*141223