『日本の南の海上に発生した台風は、非常にゆっくりとした速度で北上しており、本州に最も近付くのは、土曜日の深夜から日曜日の未明に掛けてと予測され ―――』

 登校前にチェックした天気予報によれば、今日のところはまだ曇り。
 けれど風はいつもより強く吹き、また梅雨の時期である以上、いつ雨が降り出すかもしれない。だから折り畳み傘だけは鞄に常備して、わたしは家を出た。

 それは六月のとある週末、金曜日の出来事だった。


「おい、
「――― っ」

 心臓が、止まるかと思った。

 名前を呼ばれるよりもわずかに早く肩に置かれた熱に、息を呑む。それと同時に悪寒が背筋を舐め上げ、反射的に、その熱を振り払うように立ち上がった。わたし自身も驚くほどの機敏さだったと思う。
 その驚きは飛び退くようにして振り返った先。立ち上がった勢いに押され、元の位置から大きくずれた椅子の傍らに立つ人物もまた同じだった。わたしの肩に触れた熱源の正体と思われる右手が、中途半端に上がった状態で固まっている。

「……あー、驚かせたみたいだな。すまない。何度か声を掛けたんだが、反応がなかったんでな」
「い、え……わたしの方こそ、申し訳ありません……」

 昨年度、わたしが在籍していたクラスで生物の授業を担当されていたその先生は、気まずさを誤魔化すように動かした右手で頬を掻いた。けれど反射的にとは言え、失礼な態度を取ったのはわたしの方だ。未だ落ち着かない鼓動に胸を押さえ、頭を下げる。
 すると先生が苦笑する気配と共に「気にするな」今度はその頭へ、熱が近付くのを感じた。またも反射的に、今度は身体が強張る。そんなわたしの反応に気付いたのか、先生は「おっと」と触れる寸前でその手を引っ込めた。

「すまんすまん、ついな」
「い、いえ……。あの、わたしに何か御用でしょうか?」

 時は放課後の部活動時間。学級担任でも副担任でもなければ、進級以降は唯一の接点であった授業担任でもなくなってしまった先生とは、美術と生物の観点から言っても思い当たる用件がないのだけれど。
 それとも部活動に熱中し過ぎるわたしをよく気に掛けてくださっているから、今日もまた最終下校時刻の報せに気付かなかったのかと時間を確認したけれど、まだ一時間以上も余裕がある。
 理由がわからず困惑するわたしに、先生は苦笑した。

「用と言うか、その様子だと、やっぱりまた放送は聞こえてなかったみたいだな」
「放送……?」
「今台風が来てるだろ? あれが急に速度を速めたとかで、電車が止まる前に生徒は速やかに下校するようにって、三十分ぐらい前に放送が流れたんだ。で、俺はまだ残ってる生徒がいないか見回り中」
「えっ」

 先生の言葉に驚き、わたしは慌てて窓の外に視線を走らせた。
 時刻としてはまだ遅い時間でもないのだけれど、雨雲に覆われた空は夜のように暗く、窓には明るい室内の様子が鏡映しになっているばかりで、目を凝らしたとしても外の様子を窺い知ることは難しかった。それでも、今朝とは比べものにならない唸るように吹き付ける風や、その風に煽られて窓に叩き付ける雨。暴風にしなる枝葉のざわめきは、認識することができる。
 先生を疑っているわけではないけれど、外の様子はそれでも充分、わたしが知る放課後の天気とはまるで様相が違っていた。

「さっきネットを確認したら電車はどこも運休が決まったと言っていたし、俺がを家まで送ろう」
「え? い、いえ、わたしは徒歩通学ですので、電車が止まっても問題はありませんから……」
「そうか、の家は学校の近くなのか。だがこの雨だ、傘を差したところで意味がないだろう。その点俺は車だから、濡れずにを家まで送ってやれる。可愛い教え子のためだ、何も遠慮することはないさ」
「……いいえ、わたしは大丈夫です。そのお心遣いだけいただきます」

 先生の申し出は確かに有り難いものだったけれど、わたしはこれを丁重にお断りした。
 しかし、先生は余程心配性なのか、それともわたしの言葉に余程信憑性がないのか。帰宅のためわたしが片付けを行う間も自宅まで送ると熱心に誘ってくださり、だけどそれに絆されるよりも逆に申し訳なさが募ったわたしは、早々に美術室を後にした。

 早足にやって来た昇降口から改めて外の様子を窺うと、先程よりも風は唸りを増し、雨脚も強まっている気がした。
 折角鞄に常備している傘もこの悪天候では用をなさないため、身一つで出て行くしかないと、最初からわかっていたことではあるけれど。こうしていざ直面すると、どうしたって躊躇してしまう。

(だけど……)

 たった今来たばかりの廊下を振り返る。蘇った感覚を振り払うよう、肩に触れた。

「――― くちゅん!」

 瞬間、また心臓が止まるかと思った。

 弾かれたように背後を振り返り、だけど誰の姿もないことにほっとする。見回り中だと言っていたし、仮にあの後すぐに終わったとしても、一旦は職員室に戻って荷物を取りに行く必要があるだろうから。こんなに早く追い付くはずがなくて当然なのだけど。
 だけど聞き間違いとするにははっきり聞こえた音、と言うよりもくしゃみ、だったと思う。
 下校を促されて三十分ほど経つと聞いていたから、わたし以外の生徒はすっかり下校したものと思い込んでいたけど。どうやらわたしより先に、先生に声を掛けられた生徒がいたみたいだ。――― だけどくしゃみ以降も、聞こえてくるのは風の唸り声と叩き付ける雨脚だけで。

 流石に、奇妙だと思った。

 相手を不愉快にさせるわたしの立場を思えば、不用意に近付くのは憚る行為だとわかっている。
 だけどもし、何か不測の事態 ――― 赤也くんの時のような何かが起こっていたとしたら?
 そう考えたら、居ても立ってもいられなかった。無意識に息を殺し、くしゃみが聞こえたと思われる下駄箱の陰をそっと覗き込む。そうして目に入った、最低限しか灯されていない蛍光灯の許でも輝く、その銀色の髪が印象的な人物には憶えがあった。

「仁王、くん……?」

 戸惑いよりも驚きの方が大きかった呟きは、彼の耳には届かなかったらしい。利用者が少ない旧校舎とはいえ設置されている、靴を履き替えるための簀子に座り込み、立てた膝に顔を埋める彼は微動だにしない。薄暗さに加え両腕が壁になり、表情を窺うこともできない。
 けれど今の状況下において、彼の存在は明らかに不審だった。
 くしゃみをしていたことも気になるし、ちゃんと会話したことがなくても知らない相手ではないから、余計に見過ごすことはできない。

「仁王くん? ……どうか、されたんですか?」

 驚かせないよう控えめな声量で呼び掛け、ゆっくりと近付く。
 そうして三歩目の足を踏み出した時、足元から水音が上がった。梅雨の今、何より今正に嵐が吹き荒れているのだから、屋外と屋内の境目である昇降口の地面が濡れていることは何らおかしなことではないのだけれど。
 だけど何故か、何かが引っ掛かった。
 上手く言葉にできない違和感に内心で首を傾げながら視線を上げ ――― 気が付く。

「仁王くん!?」

 残りの距離を一気に詰め、その傍らに膝を付く。水捌けをよくするため、外に向かってわずかに勾配しているはずの地面とは思えない水溜りに膝が浸かってしまったけれど、転じて確証となった事実の前では然したる問題じゃなかった。
 肩に触れれば彼の着ているダボダボのカーディガンは湿っているどころかびしょ濡れで、よくよく思い出せば跳ね気味だった彼の髪も勢いをなくし、濡れてぺたんこになっている。
 どうしてもっと早くに気付けなかったのかと、自分の至らなさが悔やんでも悔やみ切れない。

 触れられたことでようやくわたしの存在に気付いたのか、凍えからくる小刻みな震えとは別に、仁王くんは身体を揺らした。
 緩慢に、本当に最低限だけ頭を動かした仁王くんの顔を覗き込む。

「だれ、じゃ……?」
です。
「……おー……サンか……ど、したんじゃ……?」
「それはわたしの台詞です。どうしてこんなびしょ濡れで、いえ、今はそれより、えっと……」

 怠いのか、それともこんな状態にあってもマイペースなのか。間違いなく前者とは思う弱々しい掠れた声の仁王くんは、薄暗いからこそ余計にそう見える蒼白い顔をしていた。
 想像とは違ったけど、それでも不測であることには変わらない事態に、一体どうすればいいのか戸惑っていると ――― みゃあお、と。第三者の声がした。
 この時初めて気付いたのだけど、仁王くんは何故か見覚えのある辛子色のジャージを胸と膝の間に抱え込んでいた。それも気のせいでなければ、丸められたジャージはもぞもぞと動いている。思わず凝視していると ――― 円らな瞳と、目が合った。

 どうしてだとか何でだとか、沢山の疑問が次々湧いて頭の中が困惑に埋め尽くされたけれど、一方でわたしの脳裏には、先日発行された生徒総会定期発行誌、百川帰海ひゃくせんきかいに掲載されていた、生徒会からのお知らせの内容が過ぎっていた。
 なら、わたしが選べる選択肢には限りがあった。
五月雨沁みる 001*141122