** 男子生徒D


 生まれ付き身体が丈夫でなかった僕にとって、絵を描くことは唯一と言える楽しみであり遊びだった。
 そして年を重ねるにつれて遊びは趣味に変わり、日常の一部へと変わっていった。

 それは人よりハンデがある僕に与えられた少ない選択肢の中で、選んだのではなく、選ばざるを得なかった選択だった。
 でも僕はこれを悲しいとは思わなかったし、僕に比べて選択肢に溢れる健常な人間を羨むことも、妬むこともなかった。何故なら僕にとって絵を描くことは、楽しみであり、遊びであり、趣味であり、日常であり、何よりも好きなことだったからだ。
 同時に、思い上がりではなく人より絵が上手い僕の作品は、いろんな展覧会で入選することが多くて。賞をもらう度に、両親や周りから褒められたりスゴイと言われたりすることが、嬉しかった。

 ――― そうやって認められることで、ハンデの分人より掛ける迷惑が多い僕でも、存在を許される気がしたんだ。


 でも今になって思えば、それが気負いになっていたのかもしれない。
 時間が経つにつれて、賞を得て褒められる度、僕は絵を描くことにどうしようもない苦痛を覚えるようになっていった。

 沢山の色を前にしても、どの色をパレットに乗せればいいのかわからない。

 筆を握っても、筆先が震えてどこにも置くことができない。

 キャンバスに向かっても、頭の中はそれと同じまっさらで何の構想も浮かばない。

 いわゆるスランプと呼ばれるそれと反抗期が重なったことで、当時の僕は荒れに荒れた。とは言っても、まだ一年も経っていないけど。
 とにかく、その時の僕は本当にヒドい状態だった。
 唯一と言える楽しみであり、遊びであり、趣味であり、日常であり、何よりも好きだったはずの絵を描くという行為が、それ以上に苦痛であり嫌いになっていたんだ。

 だからいつもはバカみたいに絵のことばかり考えて、絵を描くことに没頭できるから待ち遠しくて仕方なかった夏休み中も、頭の中が白紙の僕に描けるものがあるはずもなくて。
 そもそも期間中、ただの一度だってキャンバスに向かうことすらなかった。向かうことができなかった。

 それでも、日常と化すほどの習慣が、そう簡単に抜けるはずもなくて。

 ふと気付くと、描けもしない絵のことを考えて耽る自分がいる。
 描けない自分を棚に上げて、他人の絵を批評している自分がいる。
 極め付きは、毎年欠かさずに通っている夏休み明けの展覧会を、無意識の内に訪れていたことだ。

 そんな自分の行動に、どこまでいっても絵から離れられない自分に、僕は絶望を覚えた。

 ――― でもお陰で、僕はあの絵に出逢うことができた。


 その絵には、審査員特別賞という、めったに見ない賞が与えられていた。
 遊びが趣味に変わって本格的に描くようになってから、構図とかいろいろ勉強した僕に言わせれば、常識から逸脱したメチャクチャな絵なのに。
 でも一目見た瞬間に思わず言葉を失い、息を呑んだ。圧倒された。
 衝動的というか、自由過ぎるというか、描いた人間のココロや高ぶりを直接ぶつけたような、そんな印象を受けた。たとえるなら幼稚園児が描く絵だ。

 題材や構想なんて何もなく、ただ自分が思うままに筆を動かした絵。
 描きたいから描いただけだと、そう言って胸を張って堂々としている。そんな絵だ。

 僕も昔、ただ絵を描くことが好きだった幼稚園の頃に、描いていた絵だった。

 そして気が付いた。最初は好きで絵を描いていたはずが、何か賞を得るために絵を描くようになっていた自分に。
 そうやって認められないと存在を許されない気がして、脅迫観念に駆られていたことに。――― スランプに陥った僕に、両親は一言だって絵の話をしてこなかったし、強制もしてこなかったのに。

 “そう”じゃなきゃいけないって勝手に思い込んでた。
 自分で自分の首を絞めていたバカさ加減に、僕はようやく気が付いたんだ。



先輩」

 少しずつ夏が近付いて日が長くなってきてはいても、時計の針が指すのは最終下校時刻間近の放課後。
 そろそろ片付けを始めないと校門が閉じられてしまうにも関わらず、一向にその気配が見られない背中に、僕は声を掛けた。だけど黙々と筆を動かす先輩の手は止まらないし、返事もない。ものすごい集中力だ。
 その様子に呆れるような感心するような、複雑な気持ちになる。

 仕方がないので筆がキャンバスから離れたタイミングを見計らって肩を叩くと、先輩は大きく肩を揺らした。

先輩、そろそろ下校時刻になりますよ」
「――― え、あっ……!」

 多少の心構えはしていたけど、それでも慣れない先輩の綺麗さにどぎまぎする内心をごまかして、壁に掛けられている時計を指差す。
 そうすると先輩の視線は僕からそちらに逸れて、自分で誘導しておきながら何だけど、僕はほっとしたような残念なような気持ちになった。

 だって、先輩は本当に綺麗な人なんだ。
 見た通り外見はもちろん、知り合ってまだ二ヶ月ぐらいしか経ってないし部活でしか関わる機会がないけど、きっと内面も。

「ご、ごめんなさい! つい夢中になってしまって……」
「謝ることなんてありませんよ。僕、先輩の絵に対するそういう姿勢を尊敬しているんですから」
「尊敬だなんて、わたしはそれほどの評価をされる人間では……」
「いいんです。実際はどうあれ、僕は先輩を尊敬していますし、先輩のファンである事実に変わりはありません」

 慌ただしく片付けを始める先輩は見た目の冷たい印象とは違って親しみが持てて、ファンだと言う僕の言葉にほんのり頬を赤らめる様子は、綺麗というよりも可愛らしかった。
 いや、一つ違いでも年上の人に対して正しくない言い方かもしれないけど。
 でも初対面で受けた最初の印象と今の印象が大幅に違うのは事実だ。

 遠慮する先輩を時間がないからと説得して手伝い、先輩が画材を洗いに行く間に、僕は室内の片付けに取り掛かった。
 でもその前に、先輩が今まで向き合っていたキャンバスの前に立つ。

 絵はあの時と同じで、構図云々なんて一切関係ない、衝動的な印象を受けた。
 写真のように精巧で、だけど写真よりも遥かに臨場感に溢れている。これが写真なら常にカメラを構えていなければ到底捉えられないような、ほんの一瞬を切り取った、笑顔。
 無邪気に、満面に、笑う。見覚えのあるモデルがひどく羨ましいと思った。

 同時に、先輩には一生敵わないと思った。
 以前の僕ならここで我武者羅になって悪循環にはまりそうだけど、もう気付いている今の僕は違う。――― 敵わなくてもいいんだ。

(でも、羨ましいと思うくらいはいいですよね?)
日常の話 005*110702