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「センパーイ!!」 移動教室のため廊下を歩いていた時、あの一件以来毎日欠かさず耳にするようになった赤也くんの声が聞こえた。 慕ってくれることは嬉しいのだけど、赤也くんほど真っ直ぐな好意を前面に押し出して接してくれる人は、これまでにいなかったから。嬉しい以上に戸惑いが大きく、特に今回は廊下という教室よりも不特定多数の人目がある中、大声で名前を呼ばれたものだから、わたしは動揺した。 立ち止まり、声がした後方を慌てて振り返る。――― 瞬間、予期せぬ衝撃に襲われた。もともと力がない上に不意打ちだったため、体勢は脆くも崩れる。 「――― うおっ!!?」 だけど続く背中への衝撃は存外優しく、身体も中途半端に傾いたところで止まっていた。 一体何が起こったのかわからずに混乱していると、止まったと思っていた動きが後ろではなく下に向かって襲い掛かり、わたしは尻餅をついた。背中から倒れていた場合を考えればずっとましだけど、それでもお尻が痛い。更には廊下の床に接するお尻や太腿の裏がひんやりして、だからこそ、背中と腰の辺りにある熱の存在が顕著になる。 「ンのバカ也!!」 「なっ、誰がバカ也ッスか!?」 「お前だお前! どっからどう見ても貧弱なに飛び付きゃどうなるかもわかんねぇお前なんざ、バカ也で充分だ!」 背中側から上がる丸井くんの怒鳴り声と、お腹の辺りであがる赤也くんの声。 二つの声にまさかと思って一先ずお腹の方に視線を落とすと、そこにはわたしの腰に抱き付き、目を吊り上げている赤也くんの姿があった。わたしから僅かに逸れていた視線がふと動いて目が合う。 「あ、センパイ。大丈夫スか!?」 「えっ? あ、……え?」 「俺が支えたんだから大丈夫に決まってんだろぃ? つーか事の原因が何言ってんだ、このバカ也」 「バカ也じゃないッス!」 最初は何が何だかさっぱりわからなかったけど、どうやら振り返った時に襲われた衝撃は、赤也くんに飛び付かれてのものだったらしい。 そして背中への衝撃は隣を歩いていた丸井くんがわたしを支えてくれたもので、現状は身長差や咄嗟のことで整える間もなかった無理な体勢が祟った結果なのだろう。 「わたしは大丈夫だけど、赤也くんと丸井くんは? 怪我はない?」 「大丈夫ッス!」 「俺もヘーキだぜぃ。それよりバカ也、お前早くそこ退け。いつまでに抱き付いてんだ」 にゅっと脇から伸びた丸井くんの手が赤也くんの頭を叩き、赤也くんは叩かれた箇所を押さえて「だからバカ也じゃないっつーの!」と唇を尖らせる。 わたしから離れて立ち上がった赤也くんに続いて丸井くんも立ち上がり、差し出された手を有り難く借りて、わたしも立ち上がる。 「二人共、本当に痛むところはない? 大丈夫?」 「センパイ、心配し過ぎッスよ。俺こそいきなり飛び付いて転ばせちまって、ホントにすいませんでした」 「ううん、わたしこそ受け止められなくてごめんね」 「いや、勢いつけて飛び付いてきたこのバカを受け止めるとか、には端から無理だろぃ。怪我したとしても今度はバカ也の自業自得だ」 「だからバカ也じゃないっつってんだろ! 丸井センパイ、さっきからしつこいッスよ!」 文字通り馬鹿にしている丸井くんの呼び方に、赤也くんはまた目尻を吊り上げた。 だけど丸井くんがそう言っても、赤也くんがまた怪我をするのは絶対に嫌だ。 今では部活動は勿論体育の授業にも参加できるようになっている赤也くんが、お医者様からようやく許可が下りたといの一番に報告しに来てくれた、あの笑顔が曇るところは、もう二度と見たくないから。 「って、もうすぐチャイム鳴るじゃん。、早く行こうぜ。赤也も早く教室戻れよ」 「い、言われるまでもないッスよ! それじゃセンパイ、今日も昼休みに遊びに行くんでよろしくッス!」 「あ、うん。またね、赤也くん」 丸井くんに促され、衝撃で廊下に散乱させてしまっていた荷物を拾い集めたわたしと丸井くんは、廊下を駆け戻る赤也くんが誰かに怒鳴られているのを背中に聞きながら、早足に目的の教室を目指した。 その道中、「そういやさ」丸井くんは思い出したように口を開く。 「って何で、赤也のこと名前で呼んでんだ?」 「え?」 「が赤也と会ったのって、この間が初めてだろぃ? けど、最初から赤也のこと名前で呼んでたし。が初対面の人間を苗字じゃなくて名前で呼ぶって、奇跡じゃねぇ?」 恐らく丸井くんが言っている“奇跡”は、以前指摘されたわたしが人見知りである云々に係るのだとは思う。 だけど、丸井くんの認識には大きな誤解がある。 「奇跡じゃなくて、丸井くんが名前で呼んでいたからだよ」 「――― へっ?」 「面白い一年生が入部したって、丸井くんがよく赤也くんの話をしてくれていたのがうつったの。それにわたし、丸井くんに紹介されるまで赤也くんの苗字を知らなかったし」 だから赤也くん本人と初対面の時には既に、わたしには切原という苗字よりも赤也という名前の方が馴染み深くなっていた。 一応後で本人に名前で呼んでもいいか確認したところ、嫌がられるどころか赤也くんもわたしのことを名前で呼ぶと言ってくれて、お相子と言うか何と言うか……。 「――― 」 瞬間、鼓膜を震わせたのは耳馴染みの声が呼ぶ、耳馴染みのない音だった。 決して大きな声ではないはずなのに大きく聞こえ、さっき赤也くんに大声で呼ばれた時以上の驚きに、弾かれたように振り返る。目が合った丸井くんは悪戯が成功したかのような笑みを浮かべていて、だからわたしはからかわれたのだと思った。けれど、丸井くんの頬には赤味が差していた。 「って、ずっと苗字で呼んでたから、やっぱハズいわ。。、……。まあ、その内慣れんだろ」 「ま、丸井くん……?」 「違う違う、ここは流れ的にも俺の名前を呼ぶべき場面だろぃ」 「なっ、え、や、……え?」 突然の展開に付いていけずに混乱するわたしに、丸井くんは今度は苦笑した。 「赤也の真似じゃねぇけど、俺ものことはこれから名前で呼ぶからさ。も俺のこと、名前で呼べよな」 「ど、どうして、急に……?」 「それはアレ、名前で呼び合ってた方がより親密な感じがするっつーか、何つーか。……俺ら、トモダチだろぃ?」 言われて、息を呑んだ。泣きそうになった。嬉しかった。 震える唇を叱咤して動かし、だけど最初は上手く声が出せなくて、掠れた空気の音しか漏れない。 それでもじっと静かに、だけど優しい眼差しで待ってくれている丸井くんに励まされ、一度深く呼吸する。そして改めて口を開いた。 「ブン太、くん……」 「おう」 「ブン太く、ん……。――― ブン太くん」 「おう、。どうした?」 優しさと同時に甘さを含んだ声音に、ますます泣きそうになった。 どうして丸井くんはこうも、わたし自身が気付かずに欲している言葉ばかりを与えてくれるのだろう。 始業を知らせる鐘の音が鳴ったことにも気付かず、わたしはそれしか言葉を知らない子供のように、何度も丸井くん ――― ブン太くんの名前を呼び続けた。 日常の話 004*110420
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