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絵、と一口に言っても、実物はそんな一音の一言に納まらない。 水彩や油彩などの技法や人物画や風景画などの類型が多岐に渡るように、絵には描き手の数だけの表現方法がある。 例えば複数の画家が一つの題材で絵を描いた場合、いくら同じ題材を描いても、その仕上がりは千差万別になる。或いは一人の画家が同じ題材で複数の絵を描いた場合も、題材の捉え方や筆遣い、色の濃淡の微妙な違い一つで、それぞれの印象はガラリと変わる。 似たものを描くことはできても、同じものを描くことは決してできない。それぞれが唯一無二の作品だ。 なんて偉そうなことを言っても、わたしにとって絵は作品ではなく、一種の手段でしかない。 その道を志す人からすれば何とも不謹慎極まりない。――― ううん、考えてみれば、そうするようになったきっかけだって不謹慎極まりなかった。 「さん」 そんなことを考えていた時、不意に名前を呼ばれた。 大きくはない、寧ろ現状の環境に配慮して潜められた声量だったけど、考え事の最中だったものだから驚く。振り返ると、幸村くんが早足にこちらへやって来るところだった。 「こんにちは、さん。さんもこの美術館を選択していたんだね」 「はい。こんにちは、幸村くん。卒業式の日以来でしょうか? お久し振りですね」 「えっ? あ……。う、うん、久し振りだね」 先月の始業式の日を始め、姿だけなら遠目に何度か見掛けてはいるけど、こうして直接会って言葉を交わすのは卒業式の日以来だ。 そう思って挨拶をすれば幸村くんは何故か目を丸くし、けれどすぐに笑って、同じ挨拶を返してくれた。とは言え、その笑い方は少しぎこちないように見える。一体どうしたんだろう。 心配するわたしに、だけど幸村くんは何でもないと言って首を振った。 「ところで、さんは一人なのかい?」 「ええ、まあ。最初は丸井くんも一緒にいたのですが、その、先に行ってしまって……」 立海大の中等部では、毎年この時期に芸術鑑賞会と呼ばれる行事が催される。 その名の通り美術・音楽・演劇の三種類の芸術を年に一種類ずつ鑑賞する行事で、去年は神奈川県内に活動拠点を置く楽団の演奏によるクラシックを鑑賞した。 そして今年は美術館での美術鑑賞になっているのだけど、立海大は一学年のクラスが多ければ生徒数も多いためか、美術鑑賞に関しては東京の上野周辺に複数ある美術館から自分が行きたい場所を選択し、人数の分散化を図った方法が取られている。 その中でわたしが選択したのは国立の美術館で、丸井くんもわたしに合わせて同じ美術館を選択していた。 だけど丸井くんはもともと芸術に対しての興味が薄く、その上パンフレットの案内図の中に館内併設のカフェがあるのを見つけると、すべての関心は一瞬にしてそちらへと移ってしまった。駆け足で先に行ってしまった背中に、この芸術鑑賞会は行事であると同時に課外授業でもあるから行ったところで飲食はできないだろうと、伝える間もなかったぐらいだ。 そんな事情を、だけど丸井くんの名誉のためにも伏せて簡単に説明すると、それでも幸村くんは大方を察したみたいだった。困ったように苦笑する。 ――― ふと、わたしに向けられていた幸村くんの視線が逸れた。 釣られて振り返ると、そこには幸村くんが来るまでわたしが取り止めなく眺めていた絵があった。色鮮やかな並木を捉えた風景画だ。 「綺麗な絵だね」 「ええ。ルノワールの作品です」 「ルノワール……?」 「幸福の画家と呼ばれ、特に女性の人物画で有名な画家です。美術の教科書に、いくつか彼の作品が掲載されているはずですよ」 「へぇ、知らなかったな。さんの好きな画家なのかい?」 訊かれて、思わず答に窮した。 そんなわたしの反応に、以前にも幸村くんの質問に対して黙り込んでしまったことがあったからか、幸村くんは慌てて話題を変えようとしてくれたみたいだった。だけど思考というものは肝心な時に限って回らなくなるものであり、案の定幸村くんもわたしと一緒に黙り込んでしまう。 以前といい今回といい、わたしって本当に最低だ。 こんな個人的な感情に幸村くんを困らせて許される価値なんてなければ、気を遣わせるくらいなら隠すことなんてないのに。自分本位過ぎる。 「……。……好きと言うよりも、羨ましいんです」 「――― え?」 「ルノワールにとって絵は、愛すべきものであり、愉しくて美しくなければならないものだったそうです。そんな感情論で、しかし彼は最期まで筆を握り、生涯画家であり続けた」 けれど、わたしは絵を描くことを単なる手段として利用しているに過ぎない。 だから絵に対する純粋な想いのままに筆を動かし、その証明のように“幸福の”画家と呼ばれる彼が羨ましかった。そして同時に妬ましくもある。 なんて、わたしの方こそ、こんなのは感情論だ。 話を聞くなり何やら考え込んでしまった幸村くんに、今度はわたしが、気にしないでくださいと笑おうとした時だった。 「さんはやっぱり、本当に絵が好きなんだね」 それは前にも聞いたことがあるフレーズだった。感慨深い声音と相俟って、思わず虚を衝かれる。 わたしの反応に、幸村くんもまたきょとんとした顔をした。 「あ、あれ? 違ったかな……?」 「……どうして、そのように思われたのですか?」 「え? だってさんは、このルノワールと言う画家が羨ましいんだろう? 羨ましいということは自分もそうなりたいってことだから、そんな感情は絵が好きじゃなきゃ抱かないと思ったんだけど……」 言葉は段々と尻窄みになり、幸村くんは最後にごめんと小さく呟いた。 「いえ、謝らないでください。幸村くんが謝ることは何もありません」 「だけどさん、その……泣きそうな顔をしてる」 幸村くんの話を聞いての反応だからか、幸村くんの顔には罪悪感が満ちていた。嗚呼、やっぱりわたしは最低だ。 「違います、違うんです。ただ……嬉しくて」 最低だけど、それでも。彼の偉人のように悦びを描けているのだと。 幸村くんに指摘されて初めて気が付いた。気付かなかった。 だから、わたしは笑った。それを証明するために。 「ありがとうございます、幸村くん」 日常の話 003*110420
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