入学式の会場となる体育館か開場するにはまだ早いその時間、新入生代表という大役を任されていたわたしは先生方と最終的な確認を含めた打ち合わせを行うため、他の新入生たちよりも一足早く学校に来ていた。
 そして春休みの間に数回足を運んで通い慣れていた職員室へ向かうその途中、落ち着きなく辺りを見回す不安げな背中を見つけた。
 小柄な体格には少し大きい真新しい制服姿から、彼が自分と同じ新入生であることはすぐに見当がついた。その後ろ姿に、彼がこの広い構内で迷子になっているのであろうということも。

 だけど別にわたしが声を掛けずとも、これから執り行われる入学式とその後に控える部活動見学のために、構内には何百人という在校生や教師がいるのだから、彼がその窮地を脱するのは簡単なことだろう。
 それでなくとも当時のわたしは一種の人間不信状態にあり、必要以上に他人と関わることを避けていた。
 だから声を掛けるつもりなんて、本当は毛頭なかった。

「どうされました?」

 では何故、次の瞬間にはそんな言葉が口をついて出ていたのか。
 理由は考えるまでもない。一瞬見えた彼の横顔が自分に重なって見えたからだ。つまりは自らで自らを哀れんだ同情。自慰。

 そして弾かれたように振り返った彼がわたしを見て瞠目し、そのまま固まってしまったことに、わたしは己の軽率さを悔いた。
 わたしが人間不信である以上に、周囲は“わたし”という存在を嫌悪しているというのに。衝動的だったとはいえその認識を欠き、わたしは一体何をしているのだろう。第一その様子から彼が迷子になっていると知りながら、何を改めて訊いているのだろうか。
 今すぐ早急に、この場を離れたい衝動に駆られた。しかし自分から声を掛けた手前、いきなり立ち去る訳にはいかない。

「どうされました?」
「――― えっ!? あ、えっと、その、た、体育館ってどっち、に……」

 同じ言葉を繰り返すと、彼ははっとしたように言葉を紡ぎ、しかし後半は尻窄みになって聞き取ることが出来なかった。
 逸らされた視線は落ち着きなく彷徨い、いい加減見慣れてもいいはずの相手のその態度に、わたしはそっと目を閉じた。こんな、事。気にするだけ今更だ。

「……入学式が行われる体育館は西門の近くにあります。行き方は ―――」

 なるべく簡単に、だけどわかり易く道順を説明すると彼は何度か頷き、頭を下げた。
 そして顔を上げると真っ直ぐにわたしを見た。――― その顔に、真夏の空で輝く太陽のような笑みを浮かべて。

「ありがとうございました!!」

 その時わたしが受けた衝撃がどれほどのものだったか。兎に角衝撃的だったとしか言いようがない。
 屈託のないそれは今までの“わたし”が見たことのない類の笑みであり、そんなものがまさか、自分のような存在に向けられることがあるなんて。想像したことがなければ、出来るはずもなかった。初めてだった。

 ――― それが彼との、丸井くんとの出逢いだった。



っ!!? おまっ、どこ行ってたんだよ!? すっげー探したんだぞ!!」

 教室前の廊下でそう叫んだ丸井くんは、言葉の通りわたしのことをあちこち探し回ってくれていたのだと、一目でわかる有り様だった。
 よれよれの制服に、緩んだネクタイ。第二ボタンまで開いたワイシャツ。うっすらと汗が滲む額にはボサボサになった髪の前髪が張り付き、その息は弾んでる。わたしに気付いて駆け寄るなり肩に近い二の腕を掴んだ手は熱くて、わたしは一瞬泣きそうになった。

 今日は丸井くんの誕生日で、今日の主役は丸井くんなのに。
 わたしは贈る側であって、貰う側ではないのに。

「他の休み時間は女子がどんどん来て身動き取れなかったから、昼休みは授業終わったら即行保健室行ったのにいねぇし! なっちゃんが教室戻ったっつーから来てみりゃやっぱりいねぇし、また女子に囲まれるし、振り切って美術室いってしばらく待ってたけど来る気配ねぇし!! てかケータイ持ち歩けよな! 持ち歩かなかったらケータイの意味ねぇしケータイって言わねぇだろぃ!!」

 怒られているのにそれを嬉しいと思ってしまう不謹慎なわたしだけど、だけどね。
 この気持ちに偽りはないし、心の底から抱いていることに間違いはないから、届けばいい。届いて欲しい。

「丸井くん」

 君に捧げるこの気持ちは、月並みなたった五文字の言葉で伝え切れるようなものではないけど。
 ほんの少し、僅かでもいいから、伝わればいい。

「誕生日、おめでとう。生まれてきてくれて、わたしと出逢ってくれて、ありがとう」

 ――― 君がいたから“わたし”はここにいる。君という存在が“わたし”をすくいあげた。
 君が当然のことであるかのように告げた、君にとっては何気なかったのであろうその言葉が、その態度が、わたしにとってどれほど嬉しいものだったか。それをわたしがどれほど望み、だけど得ることが出来なかったものか。君は知らない。――― 知らなくて、いい。

 わたしの言葉に目を見開き、何かを言い掛けた中途半端に口を開いた状態で固まった丸井くんは、かと思えば突然その場に蹲った。
 あちこち探させたことを謝罪せず、唐突にこんなことを言って怒らせてしまったのかと。わたしも慌ててしゃがみ、「ま、丸井くん?」恐る恐る呼び掛けるけど、丸井くんは膝に埋めた顔を更に腕で囲っていて状態が窺い知れない。
 だけどふと気が付く。隙間からわずかに覗く丸井くんの耳が、その髪色に負けない赤色に染まっていることに。

「丸井くん? もしかして、照れてる、の……?」
「――― ったりめーだろバカ!!! 大体はいつもそうやってっ、ンのバカ!! あーまじもー在り得ねーし!! のバッカヤロー!!!」
「え、ええっ!? ご、ごめ、ごめんなさい……? え? えっ?」
「ごめんじゃねーし!! だあクソッ! おい、お前自分の誕生日覚悟しとけよな!!?」

 な、何をされるんだろう……?

 脅しにしか聞こえない発言だけど、告げる丸井くんの顔は耳どころか首まで赤くて、わたしは込み上げる気持ちを隠さずに笑った。
 ここがお昼休みの廊下で、周りには沢山人がいて、みんながわたしと丸井くんに注目しながら遠巻きにしていても。そんなこととか、どうでもいいとか、そう思えた。思うことが出来た。

 ――― すべては君がいればこそ。
四月二十日 003*100907