教室へは行けないわたしの足が向かったのは、こういう場合の定番になっている美術室ではなかった。
 人がいない方向に宛てなく進み、その結果、一年生の始めの頃によく足を運んでいた図書室の前に行き着く。

 『室』より『館』と言った方がしっくりくるくらい、種類豊富な蔵書の室内は広く利用者が多いのだけれど、如何にも需要がなさそうな分厚い専門書の棚には、滅多に近付く人がいない。
 だからあの頃は、心理的な裏を衝く隠れ場所として、図書室は重宝していた。
 美術室の合い鍵をいただいてからはそちらにばかり行くようになり、近頃はめっきり訪れなくなっていたけれど。

 お昼休みになって間もないからか、図書室には生徒の姿がまだなかった。
 カウンターには司書さんの姿もなかったけれど、今は誰とも顔を合わせたくなくて人気を避け、この場所に行き着いたわたしには丁度よかった。足早に奥へ向かい、一時期見飽きた棚の陰に入る。
 少し埃っぽいその場所に、わたしは不思議と安堵を覚えた。

(でも、この後はどうしよう……)

 お昼のことはいい。お弁当は教室の鞄の中だし、何より今はお腹が空いていなければ、何かを食べたい気分でもない。

 ――― だけど、お昼休みが終わったら?
 早退せず学校に残った以上、鐘が鳴れば教室に戻らなくてはいけない。でもわたしには、その勇気がない。
 わたしが一人で勝手に気まずくなっているだけだけれど、でも……。


 そうしてまた考え込んでしまったわたしは、こんな人気がない場所なら気付けないはずがない気配に、不覚にも気付くことが出来なかった。
 声を掛けられてはじめて我に返る。

さん……?」
「――― っ!!?」

 危うく口から飛び出すところだった悲鳴は、咄嗟に働いた理性のお陰で、音になることはなかった。
 ドッドッドッ、と大きく騒ぐ心臓の上に手を当てて振り返ると、瞠目する瞳と眼鏡のレンズ越しに目が合う。

「柳生、くん……?」
「はい、こんにちは。お久し振りです、お元気でしたか?」
「は、はい。こんにちは、お久し振りです」

 そこにいたのは彼の言う通り、久し振りに顔を合わせた柳生くんだった。
 今の柳生くんが何組かは知らない。だけど姿だけなら始業式の日に遠目に見て、こうして言葉を交わすのは春休みに入る前が最後だ。いつしか日常になっていた彼と交わす挨拶も、およそ一ヶ月振りになる。

「何やら難しい顔をされていましたが、具合でも悪いんですか?」
「い、いえ、少し考え事をしていただけですから、平気です」

 仮に具合が悪くても、今保健室に行けば今度は強制的に早退させられるのが目に見えたいた。それだけは避けたい。
 一方で、どうすればこの状況を打破出来るか、わたしは必死に頭を働かせた。

「考え事、ですか。……何か悩みがあるのでしたら、私如きでどこまで力になれるかわかりませんが、相談に乗りますよ?」
「……え?」
「自覚されていないようですが、さん、今にも泣き出しそうな顔をされています」

 思わず反射的に頬に手を当てて押さえたけれど、そんなことをしても自分の表情を知ることはできない。
 だけど柳生くんの指摘に胸の奥の方、心臓がぎゅっと締め付けられて、じわじわ悲しい気持ちが込み上げて来ることはわかった。嗚呼、確かに泣きそうだ。慌てて俯き、そういうごちゃごちゃしたものを吐き出すように、大きく息をつく。
 そうして気持ちが落ち着いたところで顔を上げると困り顔の、だけど優しい色の瞳をした柳生くんと、レンズ越しにまた目が合う。

「少しだけ、御時間をいただいても宜しいでしょうか?」
「ええ、勿論。私で宜しければ喜んで」
「……ありがとう、ございます」

 だけど図書室ではこれ以上の私語は慎んだ方がいいし、何よりここではいつ人が来るかわからず相談事には向かないため、場所を移した方がいいと柳生くんは言った。そしていつの間にかカウンターに戻られていた顔馴染みらしい司書さんにお願いをして、わたしを隣の準備室へと導く。
 整然とした室内で向かい合わせに座り、柳生くんはわたしが話し始めるのを静かに待ってくれた。
 お陰でわたしは落ち着いて、このもやもやとした気持ちを言葉にすることができた。

「柳生くんは、同じテニス部に所属している丸井くんをご存じでしょうか?」
「丸井くんですか? 勿論、丸井くんは同じテニス部の仲間ですから」
「では、その丸井くんが今日、誕生日であることは……?」
「ええ、存じていますよ。丸井くんとは他の仲間数人を含めて特に親しくさせていただいていますから、心許こころばかりではありますが、お祝いの品を今朝贈らせていただきました」
「……そう、ですか」

 予想していた範疇の答とはいえ、実際に言葉にされるとやっぱり感じるものが違って、わたしは俯いた。
 嗚呼、どうしよう。どうしよう……。

さんも、聞くところによると丸井くんとは親しいそうですが、もしかして丸井くんの誕生日をご存じなかったのですか?」

 するとわたしの反応に、柳生くんは気遣わしそうに訊ねて来た。

「いいえ、丸井くんの誕生日は以前から存じていました。ですが……贈り物が、ないんです。丸井くんの誕生日を知った時からずっと考えていたのですが、何も思い浮かばなくて……」
「……」
「わたし、丸井くんには物凄く感謝しているんです。言葉や物では到底伝え切れないほど、彼という存在、彼をこの世に生んでくださった彼のお父様やお母様に、「ありがとうございます」とお伝えたいんです。だけど、どうしたらいいのかわからなくて。せめて言葉だけでもと思いましたが、今朝嬉しそうに沢山のプレゼントを抱えた丸井くんを見たら、感謝どころかおめでとうの一言すら言えなくなってしまって……」

 在り来たりな一言でしかこの気持ちを表現出来ない自分が、酷く安っぽく思えた。
 わたしが丸井くんに対して抱くこの気持ちは、そんな一言でしかないのかって、自己嫌悪に襲われた。
 他に何も思い付かなかったなんて、言い訳にもならない。そんな嫌悪。

「……充分だと思いますよ」
「えっ?」
「たとえ贈り物の内容が思い付かなくても、おめでとうの一言だけでも。大事なのは丸井くんを思うさんの“気持ち”だと、私は思います」
「わたしの、気持ち……?」
「はい。もし私が丸井くんの立場なら、先程さんが仰った“物や言葉では到底伝え切れない”というその気持ちは、他のどんな贈り物にも引けを取らない贈り物に値します」

 そう告げる柳生くんはうっすらと赤味が差す頬を、眼鏡のブリッジを押し上げる手で隠した。
 そして、更にこう続ける。

さんに ――― 誰かにそこまで想われて嬉しくない人なんて、いませんよ」
四月二十日 002*100905