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無人になるためヒーターを消して退室していた美術室の空気は、すっかりまた、冷たくなっていた。先程と同じように電気を点けてから、ヒーターの電源を入れに向かう。 新校舎の方とは違い色褪せたように汚れ、画材のにおいが部屋に染み付いている空間がそんなに珍しいのか、幸村くんは出入口のところで物珍しそうに、室内を見回していた。新校舎の綺麗な美術室を見慣れているも影響あるだろう。 「ヒーターが点くまでしばらく寒いので落ち着けないとは思いますが、どうぞお座りください」 「あ、はい。お邪魔します」 急に畏まった幸村くんに、わたしは思わず笑った。 幸村くんはわたしがスケッチブックを出しっ放しにしていた席の隣に腰を下ろした。手元がよく見える位置のため、見学するには妥当な位置だろう。だけど普段は丸井くんと前後に座って向き合っているから、隣に人がいると何だか違和感を覚える。 「同じ美術室でも、新校舎とはだいぶ印象が違うね」 「そうですね。わたしはこちらの方が落ち着いて好きですけど」 「さんは本当に美術が好きなんだね。やっぱり小さい頃から絵を描いていたのかい?」 それは極々自然な流れの中での、見学を申し込まれた時点で予測できた、当たり前とも言える質問だった。だけどわたしは答に窮し、身体を硬直させた。 目に見えるほどの、余程の変化だったんだと思う。幸村くんは戸惑った調子でわたしを呼び、それにぎこちなく振り向けば、幸村くんは声音通りの表情を浮かべていた。 「さん? どうかした?」 「…………いいえ、何でもありません。それより日が短くなって下校時刻が早まっていますし、早速始めましょう」 あからさまな話題転換に幸村くんは困惑した様子だったけど、何の追及もしてこなかった。 それどころかよろしくお願いします、と改まって頭を下げられてしまい、わたしは込み上げる罪悪感から目を背けた。 絵の内容は、簡単に描けて、幸村くんに馴染み深いものにした。 先程幸村くんを待っていた間にテニスコートを見つめていてふと思い浮かんだ、ずばり、テニスボールだ。ラケットとどちらにしようか迷ったのだけど、つい最近丸井くんが持っていた実物に触れる機会があったので、遠目に見たことがあるだけのラケットより、幾分描きやすいと思っての選択だった。 デッサン用に長く芯を削った描き味がお気に入りの鉛筆を右手に握り、スケッチブックを左手で抱えるように押さえて持って、わたしは目を閉じた。あの日触れたテニスボールの大きさ、感触、形、細微に渡って記憶を掘り起こす。 そして目を開けると、わたしは紙面に鉛筆を滑らせた。 (――― 完成、と) 集中力があるといえば聞こえはいいけど、わたしには一度何かに集中すると、その他一切が疎かになるという傾向がある。 それは食事や睡眠すら忘れてしまうほど酷いもので、特に絵を描いている時の集中力は、作品を完成させるまで途切れないのが当たり前だ。自覚があってもなかなか自制が利かないため、お陰で何度、こっ酷く叱られたことか。 そんな集中力は今回も遺憾なく発揮され、わたしが我に返ったのはデッサンが完成してからだった。時間にして三十分弱といったところだろう。 「すごい……」 反動で気が緩んでいたタイミングだった。耳元と言えるほど近くで上がった感嘆の声に、わたしは驚いた。 見れば輪郭がぼやけてしまうほどすぐそこに人の顔があり、集中し過ぎたあまり、幸村くんの存在をすっかり失念していたわたしは大いに驚いて、咄嗟に身を引いた。 するとわたしの反応で幸村くんもこの距離に気が付いて、開始前の時点より前に出ていた身体を椅子ごと後ろに下げた。 「ご、ごめん、見入っちゃって、その……それって、テニスボールだよね?」 「……はい」 「すごい、まるで本物みたいだ。もっとよく見せてもらってもいいかい?」 頷き、スケッチブックを差し出す。 幸村くんは紙面の中央に描かれたテニスボールしばらくの間じっくり見つめていたけど、やがて他のページも見ていいかと訊いてきた。首肯すると御礼を言われ、幸村くんは残り二ページの白紙と裏表紙を過ぎて表紙に戻った。そして一ページ目の、とある公園での光景を描いた風景画に感嘆を零す。 一ページずつじっくり見てくれるのは有り難いような恥ずかしいような、筆舌に尽くし難いむず痒さを覚えて、わたしは手元の片付けを誰に対するものでもない言い訳にして、幸村くんから目を逸らした。 「さんは……」 「は、はい」 「さんは、絵を描くときに何も見ないのかい? ほら、実物を見ながらじゃないのに、すごくリアルなテニスボールを描けていただろう?」 「あ、はい。基本的には記憶の中のものを掘り起こしながら描きます。わたしにとって絵は、日記みたいなものですから」 「日記、か」 どこか意味深に聞こえる幸村くんの呟きに首を傾げた時、最終下校時刻を告げる鐘が鳴った。 閉じたスケッチブックを差し出される。 「キリがいいし、帰ろうか」 「……ええ」 窓の外は暗く、窓は黒い鏡のようになっていた。 一緒に昇降口まで来た後、夜道は危険だからと言って幸村くんはわたしを家まで送ってくれようとしたけど、わたしはそれを丁重に断り、それなら今日の御礼だと言って彼が奢ってくれたココアをカイロ代わりにして帰宅した。 それはここ最近丸井くんがよく飲んでいるお気に入りの品なだけに甘くて、だけどちょっぴり、苦かった。 約束の日 004*091126
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