雪が降った。今季初の降雪にして、ほんの数センチとはいえ初の積雪だった。
 試験が無事に終わり、あとは冬休みを待つだけになった十二月中旬の放課後。一緒に日直をこなした日以来、朝と別れの挨拶を毎日欠かさなくなった柳生くんが教室を出たのに少し遅れて、わたしもまた教室を出た。

さん!」

 丁度そこを、いつかのように呼び止められる。
 覚えのある状況と声に足を止めて振り返ると、幸村くんが小走りに近い早足でやって来るところだった。

「よかった、まだ教室にいて」
「わたしに何か?」

 そう訊ねてはみるものの、言葉を交わすどころか顔を合わせるのも初対面以来になる幸村くんが、わたしを呼び止める理由は一つしか思い当たらない。
 案の定、幸村くんはわたしに今日の部活の有無を訊ねてきた。

「雪でコートが使えないから、今日はミーティングだけで早く部活が終わるんだ。その後にでもあの約束、駄目かな? 急なのはわかっているんだけど、こんな機会、次はいつになるかわからないし……」
「……部活にはこれから向かうところです。幸村くんが良いのなら、わたしは今日で構いません」

 しかし申し込みから一ヶ月以上が経ってようやく巡って来た機会が天候不純によるのは、何だか皮肉な気がする。
 初対面時の挙動不審さの面影がすっかり見られない幸村くんは、わたしの回答に破顔した。大好きなお菓子を前にした丸井くんを思い出す笑顔だ。何だかこそばゆい。

「精市」

 その時、幸村くんの名前を呼ぶ声が彼の後方から掛かった。
 はっとした顔で振り返る幸村くんの視線を追ってわたしも目を向けると、そこにいたのは、中学生らしからぬ落ち着きを感じさせる男の子だった。
 実はその背にあるテニスバッグを見るまで、本当にテニス部なのか半信半疑だった幸村くんように、彼もまたテニスバッグを背負っている。幸村くんの部活仲間だろう。

「柳」
「そろそろ行かないと遅刻するぞ」
「ああ。そうだね、悪い」

 腕時計を見た幸村くんは頷いた。

「それじゃあさん、また後で」
「……ええ、後程また」

 わたしは二人に会釈すると、放課後を迎えて間もない、人も人目も多い廊下から足早に立ち去った。


 美術部の活動は、主に旧校舎の美術室で行われる。
 普段授業で使用される新校舎の新しく広い美術室とは違い設備が古く、机や椅子などの備品すべてが使い込まれて、油絵の具やニスなんかのにおいが染み付いている空間だけど、ここはわたしにとって構内で一番落ち着ける場所だ。

 外気温と大差のない室内の空気に身震いしながら、だけどどこかほっとして、わたしはまず出入口脇のスイッチを入れて電気を点けた。それから、ヒーターの電源を入れに向かう。
 旧校舎は旧校舎で好きな場所だけど、それでも設備で不満があるとするなら、稼動まで時間の掛かるこの暖房機ぐらいだろう。給油の手間がなければ稼動も早いエアコンが完備されている新校舎が、こればかりは羨ましい。

 丸井くんがよく座る傍らの席の机に鞄を置き、ようやく稼働を始めたヒーターがある程度空気を暖めるのを待ってから、学校指定のマフラーを外して畳み、鞄と一緒に机に置く。同じく学校指定のコートは、同じ席の背凭れに掛けた。

 通学鞄とは別の鞄から取り出したスケッチブックと筆箱を手に、わたしはいつもの席に腰下ろした。お尻が冷たい。
 そして残り三ページしかないスケッチブックの未使用ページを開き、わたしは頭を悩ませた。

「何を描こう……」

 本当のことを言えば、今日は部活動をせずに新しいスケッチブックを買いに行くつもりでいたから、全く考えていなかった。
 忙しい幸村くんとの約束がようやく果たせるというのに、なんてタイミングが悪いんだろう。

 剰え、わたしにとって『絵を描く』行為は、『日記をつける』という行為に近い。
 実物を前にして描くことよりも記憶の中にあるものを掘り起こして描くことの方が断然多いから、こういう時、咄嗟に何も思い浮かばなかった。わたしの制作意欲は大概が衝動的なものだから尚更だ。
 ここは何か適当なモデルを見つけてデッサンするのが妥当と考え、わたしは脱いだばかりのコートを着て、教室内の扉で繋がる隣の準備室へ向かった。廊下に面する扉と違ってここは常に鍵が開いているので、事務室まで鍵を借りに行く手間はない。

 埃っぽい室内に顔を顰め、ハンカチを口元に当ててモデル探す。石膏像辺りが妥当だろう。
 だけど何年も前に卒業した先輩方の作品が収容され、物置も同然の状態になっている準備室から、目的の物を探し出すのは骨が折れることだった。これは新校舎の美術室から持って来る方が断然早いかもしれない。いや、絶対早い。
 でも遠く離れた新校舎の美術室から旧校舎の美術室まで、何キロもある石膏像を持ち運ぶなんてこと、貧弱なわたしには到底無理な話だ。悲しいかな、自分の体力のなさは自分が一番よく知っている。
 何より幸村くんがいつ来るかわからない状況で、不用意に留守にする訳にはいかなかった。

 さて、一体どうしようか。
 幸村くんがやって来るまでの間、わたしはひたすら頭を悩ませた。
約束の日 001*091114