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朝、わたしは人ごみを避けて誰よりも早く登校し、教室に鞄を置いた後は、鐘が鳴る直前までの時間を美術室で過ごす。 そうするようになったのは、各人の自主性に任されている美術部の活動に毎日励んでいたわたしを、毎回事務室まで鍵を借りに来るのは面倒だろうと気遣ってくれた顧問の先生に、美術室の合い鍵を渡されてからだった。それまでは鞄を置いた後、人気を避けて常に校舎内を移動して回っていた。 何故なら可能な限り周りと顔を合わせる時間を減らすことが、わたしを嫌う周囲とわたし自身、お互いのためだと考えたからだ。 だけど、そんなことを言っていられなければ、できない時期がやって来た。 「日直、か……」 昨日の時点でわかっていたことだけど、こうして当日、黒板に書かれた自分の名前を見ると改めて思い知らされる。 いろいろな仕事があれば不意にそれを任されることもあるため、今日は一日教室にいなくてはならない。考えただけで憂鬱になる。そして何より、日直が二人ずつで持ち回る役目であることが憂鬱だった。 まだ登校して来ていない隣の席をちらりと見て、わたしは日誌を取りに職員室へ向かった。 「おはようございます、さん」 朝の時点で記入可能な項目を埋めた日誌の過去のページを読むことで、時間の経過と共に増えていく人たちを意識しないようにしていたわたしは、ふと掛けられた授業中によく耳にする声に顔を上げた。 廊下側の席であるわたしの唯一の隣人は、丁度今、登校して来たところらしい。この席になって一ヶ月ほど経つけど、挨拶をされたのは今日が初めてだった。 「……おはようございます」 「すみません、部活の朝練があったものですから、来るのが遅くなってしまいました。日誌を取りに行って下さったんですね。ありがとうございます」 「……別に、それも仕事ですから」 中学一年生にしては、彼、柳生くんは丁寧過ぎる物腰の人だ。 それにしても、彼だって今までわたしを遠巻きにして来た周囲の一人なのに。一緒に日直当番だからというだけで、そんな気軽に話し掛けて来るなんて。一体どういうつもりだろう。 「では、黒板を消すなどの仕事は私が行うので、日誌はさんにお願いしてもよろしいですか?」 「……わかりました」 「ありがとうございます。それでは今日一日、よろしいお願いします」 答えは頷くだけに留めた。 それにしても一ヶ月経って気付くのは物凄く今更だけど、わたしは柳生くんのような人が苦手なのかもしれない。急に優しくされてどうしたらいいかわからないし、変に勘繰ってしまう自分が嫌になる。 だけど柳生くんが言う通り、今日一日の辛抱だ。今日一日堪えさえすれば、わたしと柳生くんは単に席が隣というだけの関係に戻れる。だから今は耐えるしかない。 わたしが休み時間も教室に留まっていることによる空気の悪ささえ除けば、今日一日の日直の仕事は然程苦ではなかった。 それもこれも、わたしが日誌を書き柳生くんが黒板を綺麗にするという分担以外の仕事を、別段任されることがなかったためだ。お陰で朝以降柳生くんと言葉を交わすことなく、どうにか無事に放課後を迎えることができた。 「日誌は書き終わりましたか?」 「ええ、何とか」 窓の戸締まりを確認し、カーテンをまとめる作業を終えた柳生くんに頷きながら、わたしは最後の感想を過去の記事を参考に埋めた日誌を閉じて立ち上がった。 後はこれを職員室に届ければ、日直の仕事は終了だ。早く行って、今日はもう部活をせずに帰ろう。 そう思って鞄に荷物を詰めていたところ、机に鞄を取りに来た柳生くんに「さん」呼ばれた。 「今朝はさんに職員室へ行っていただいたので、今度は私に行かせて下さい」 「……いえ、日誌の受け持ちはわたしですので結構です。それより、早く部活へ向かわれた方がよろしいかと」 「ですが……」 渋る柳生くんは責任感が強い人なのか、埒が明かなさそうなやり取りにわたしは早くもうんざりした。 自分から役割分担を持ち掛けたのだから、最後までそれでいいではなかろうか。教室から職員室までは距離がありはするものの、放課後になってしばらく経ち人気が減っているため、人目という苦がある訳でもない。 寧ろ今は、柳生くんと教室に二人きりという状況であることが、わたしには余程苦痛だった。いや、相手は彼に限らないけれど。 「兎に角、日誌はわたしが持って行きますのでお構いなく。では、失礼します」 「あ、さん!」 「……まだ何か?」 反応しなければいいだけの話かもしれないが、呼び止められてしまっては無視する訳にはいかない。 意図せずトーンが低くなった自分の声にらしくもなく舌打ちしたくなった。それに一瞬、柳生くんも怯んだようだったけど、彼はその表情を実に自然に、穏やかな笑みへと変えた。 「お気遣いありがとうございます。気を付けてお帰り下さい」 また明日、と締め括られた言葉にわたしは驚き、単なる社交辞令だとしてもどう返せばいいのかわからなくて。 ただ軽く頭を下げて、わたしは教室を飛び出した。それだけで一杯いっぱいだった。 職員室へ寄ったその後はやはり部活をせずに帰宅したのだけど、その辺りの記憶は曖昧で、あまり憶えていない。 よく耳にしていた声とはまた違う抑揚で紡がれた言葉に、わたしは明日が待ち遠しいような来て欲しくないような不思議な感覚に捕らわれ、その日の夜はなかなか寝付くことができなかった。 そして翌朝。 「おはようございます、さん」 昨日はできなかったいつも通りの朝を過ごしたわたしを教室で出迎えたのは、昨日の別れ際に見た穏やかな笑みで挨拶をする、柳生くんだった。 日直 001*091111
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