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四月に入り、春休みが終わり新学期が始まる一週間前の、お昼時だった。 昼食の支度を始めようと丁度エプロンをつけたところで鳴ったインターホンに、わたしは首を傾げた。自分で言うのも寂しい話だけど、わたしには知り合いが少ない。家を訪ねてくれるほど親しい相手ともなると皆無に等しく、事実これまでに招き入れたことがある人はたった一人しかいない。 だけどその人が来訪する予定はないし、この家には宅配便が来ることもない。一体誰だろう? 最新鋭のセキュリティーを備えるこのマンションの、音声だけではなく映像でも来客が誰かを確認できる受話器を見にキッチンを出たわたしは、そこに映し出された人物に目を疑った。 慌てて受話器を取ると、慌て過ぎてガチャっと大きな音が鳴る。 「丸井くん!?」 『――― うおっ!? ビビったぁ、いきなりデカい声出すなって!』 「あ、ごめんなさい……」 急いた勢いのまま声を出すと、わたし自身驚くくらいの大声になった。 ここを訪れるたび場違い過ぎて落ち着かないと言い、いつも挙動不審にエントランスを見回している丸井くんの身体が大きく跳ね、弾かれたようにカメラを向く。画面越しに、一方的に目が合った。 『まあ別にいいけどよぃ』 「本当にごめんね? 今開けるから、上がって」 『おー』 こちらでボタンを操作をすると、丸井くんの視線がカメラから外れ、軽く手を上げた姿が消える。それを確認してから受話器を置いたわたしは、急いで玄関に向かった。 本当はエレベーターの前まで出迎えに行きたいけど、前にそれをしたら何故か怒られたことがあったから、わたしは玄関扉を前に、今度はわたしの方が挙動不審になって丸井くんが来るのを待った。――― さっきとは違うインターホンがまた鳴る。 「はい!」 「うおっ!? い、いつもいつもいきなり出て来んなよ! は俺に何か恨みでもあんのか!!?」 「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど……」 その瞬間に勢いよく扉を開けると、危うく丸井くんとぶつかるところだった。幸い持ち前の反射神経で丸井くんが避けてくれたから大事には至らなかったけど、一歩間違えれば丸井くんに怪我をさせていたところだ。 実は過去に何度も犯したことがあるこの失態に、わたしは落ち込んだ。 いくら丸井くんがこの部屋を唯一訪ねてくれるお客様で、突然でも何でも、その来訪が嬉しいからといって興奮して、その所為で怪我をさせてしまっては申し訳が立たない。最悪の場合、丸井くんからテニスを取り上げる真似になってしまうかもしれないのに、いつまでも学ばない自分が嫌になる。 「まあ、これがあっとんチ来たなって感じするし、あんま気にすんな。それよか中入っていい?」 「それはそれで複雑だよ……。少し散らかってるけど、どうぞ」 扉を押さえながら脇に避けると、丸井くんは「お邪魔しまーす」と中に入り、下駄箱から来客用のスリッパを出して家に上がった。もうすっかりこの家の勝手を把握したその行動がすぐったい。 春休み中にも拘らず制服姿でテニスバッグを持った丸井くんに部活があるのかと訊くと、今日はもう終わったとの回答があった。午後からは業者が入ってのコート整備があるため、午前中の練習だけだったそうだ。 「お昼はもう食べたの?」 「あ……。いや、まだだけど」 「それならご馳走させて。少し待ってもらうことになるけど、丁度今作ろうとしていたところなの」 「でも迷惑じゃね? 何の連絡もなしにいきなり来ちまったしよぃ……」 「そんなことないよ。突然でも何でも、丸井くんが遊びに来てくれて、わたし今すっごく嬉しいんだから」 そう言って笑えば、最初は躊躇っていた丸井くんは、だけど最後には頷いてくれた。 その代わり手伝うと言って譲らない丸井くんと色違いのエプロンをつけ、わたしたちは並んでキッチンに立った。 メニューは丸井くんが来る前に予定していたパスタだ。ついさっき盛大な腹の虫を鳴らした丸井くんのためになるお手軽料理だし、丸井くんの分のパスタを多めに茹でて作れば、食欲旺盛な丸井くんのお腹を満足させるには充分だろう。 こうして、ほうれん草とベーコンの塩味パスタと卵スープ、丸井くんが全部千切ったり洗ったりしてくれた野菜サラダを手早く完成させたわたしたちは、食卓用のテーブルに向かい合って座り、久し振りに一緒の昼食時間を迎えた。 春休み前の学校は三月に入る頃から午前中で授業が終わるようになっていたから、思えば丸井くんと一緒にお昼を過ごすのは、かれこれ一ヶ月振りくらいになる。 「そういや、と一緒に飯食うのって久し振じゃね?」 「わたしもそう思ってた。ふふっ、それもこれも丸井くんが遊びに来てくれたお陰だね」 まさに“山盛り!”っていう量のパスタを物凄い勢いで減らす丸井くんは、余程お腹が空いていたらしい。 ハムスターかリスみたいに頬を膨らませ、パスタに使ったオリーブオイルで唇をテカテカさせている丸井くんに、わたしは苦笑してティッシュを差し出した。そんな掻き込むように食べなくたって、誰も取ったりなんてしないのに。 味見してもらった時に「美味い!」と絶賛してもらえたスープに口を付け、そこでふと過った疑問に、わたしは早くも完食したパスタとスープをおかわりしに席を立った丸井くんを目で追った。ここはオープンキッチンだから、食卓からでも丸井くんの姿がよく見える。 「そういえば、急に訪ねてくるなんて、何か用事でもあったの?」 「――― えっ!!?」 訊ねた瞬間、丸井くんの手からスープ鍋の蓋が滑り落ちて大きな音を立てた。 蓋は鍋とセットのステンレス製だから幸い割れる心配はないけど、蓋の裏側に付着していた湯気の水滴が辺りに飛び散る。それに慌てる丸井くんにつられてわたしも慌て、近くにあった布巾を咄嗟に掴んで駆け寄る。制服についてしまった水滴を拭き取るけど、斑に濡れた後がどうしても残った。 単なる水滴だから染みになる心配はないと思うけど、濡れた箇所だけ色が濃くなって、少し不恰好だ。 「大丈夫だった? 足の上に落としたりしてない?」 「お、おう。俺はなんともねぇけど、床が凹んじまった……」 「そんなことは気にしないで。おかわりならわたしがよそうから、丸井くんは向こうで待ってて。ね?」 丸井くんが言う通り、蓋を落とした衝撃で床には凹みができていたけど、丸井くんが怪我をしていないのなら、このくらい安い代償だ。わたしなんて前に手を滑らせてイーゼルを落とし、これより大きな凹みを作ってしまったんだから。 床や他の水滴も手早く拭き取って手を洗い、残りのパスタ全部とスープをよそい、わたしはそれらを食卓の椅子に縮こまって座る丸井くんの許へと運んだ。気にしなくていいって言ったのに。 「はい。スープならまだあるから、おかわりしたかったら遠慮なく言ってね」 「……悪い」 「丸井くんが謝ることなんてないよ。いきなり訊いたわたしが悪かったんだし」 「いや、どう考えても俺が悪いだろぃ。いきなり押し掛けたのにメシご馳走になってるし、が疑問に思うのは当然だ」 向かいの席に戻ったわたしを、丸井くんはちらちらと窺って何か言いたげな様子を見せた。 わたしは黙ってその時を待ち、やがて決心がついたのか、丸井くんはようやくわたしに真っ直ぐ視線を向けた。 「」 「はい」 「そのな、俺、その……ああああ! 言えねぇ!! 言える訳ねぇだろぃ!!」 だけど丸井くんが言おうとしたことが言葉になることはなかった。突然叫んだ丸井くんは何事かブツブツ呟いて頭を抱える。 途切れ途切れに「マジ無理」とか「仁王の野郎」とか「ハードル高過ぎ」とか、そんな声が聞こえるけど、一体どういうことだろう。バレンタインの時に初めて会ったきり面識も関わりもない仁王くんの名前が、どうして今出てくるのかもわからないし、わたしは困惑した。 「丸井くん? どうしたの?」 「……はさ、今日が何の日か知ってっか?」 「今日? 今日は……」 わたしはカウンターの上の卓上式カレンダーに目を向けた。 このカレンダーは月毎に季節の花の写真がセットになっているカレンダーで、わたしのお気に入りだ。因みに今朝捲ったばかりである今月のページは、満開に咲いた桜の花の写真になっている。 「四月一日、だね。何の日って言われても……。あ、年度末?」 確か一年度の数え方って、四月二日から翌年の四月一日までだったはずだ。 つまり書類上だとわたしたちは今日まではまだ中学一年生で、明日から中学二年生ということになる。 「間違ってねぇけど違う。不正解。……あの人からは何も言われてねぇのかよぃ?」 「え? ううん、特には。あ、でも午前中に変な電話は掛かってきたかな」 「変な電話?」 「あの、とかその、とか。何か言いたそうにしてるのに、やっぱり何でもないって」 思えばあの煮え切らない感じは、さっきの丸井くんとそっくりだった。ううん、まるで一緒だ。 それを言うと、丸井くんはなぜか遠い目をして「あの人も同類かよぃ」とため息混じりに言った。でも同類って、確かにあの人と丸井くんの行動には一致する点があったけど、一体どういうことだろう。 「……今日さ、部活に行ったら仁王に「好きだ」って言われたんだよ」 「仁王くんに? 仲が良いんだね」 「いやLikeじゃなくてLove的な意味で。もうマジで貞操の危機を感じてさ、ヤバかったんだよ。いろいろ」 哀愁を漂わせて告げる丸井くんに、わたしは反応に困った。 まあ世界は広いし、人の好みはいろいろだし、国によっては同性間の結婚を認めているところもある。身近にそういう人がいるのは正直驚きだけど、でもその、うん。し、仕方がないよね。感情って理屈じゃないし! 「待て、! お前今ゼッテーしちゃいけねぇ自己完結したろぃ!?」 「そ、そんなことないよ! 大丈夫、何があってもわたしと丸井くんは友達だよ!」 「だからちげぇっつーの!! 嘘だよ、仁王の嘘! 今日がエープリルフールだからって仁王がついたウ・ソ・だ!!!」 「――― えいぷりるふーる?」 そう言われてもう一度カレンダーを見たわたしは、「あ!」思わず大きな声が出た。 カレンダーに記載されるようなイベントではないから気付かなかったけど、そう言われてみれば確かに、今日は一年で一度の嘘をついてもいいと言われている日だ。 ということは、あの電話って、今日が嘘をついてもいい“イベント”だったから……? 「ど、どうしよう丸井くん!? わたしすっかり忘れてた!」 「あー、気にすんな。あの人も俺も、結局に嘘つく勇気なかったんだしよぃ。蒸し返されても気まずいし」 確かに今更連絡して嘘をつくのもつかれるのも、お互いに気まずい話だ。 それに確かエイプリルフールって、嘘をついていいのは午前中だけで、午後は午前中についた嘘を訂正しに行くのがルールだった気がする。あと相手にとって害のない、からかう程度の嘘だけが許されたはずだ。 午後になって一時間近く経つ今、嘘はルール違反だ。気まずさもあるから、気付かなかったってことじゃ駄目かな。 丸井くんに意見を求めると、そうしとけと言って丸井くんも賛成してくれた。その代わり来年は忘れないようにしないと! 「いや、んな意気込むもんじゃねぇだろぃ」 「でも丸井くんだって嘘をつくためにわざわざ来てくれたんだから、やっぱりちゃんと覚えておかないと!」 「別に覚えてもらってたって、嘘つけなきゃ意味ねーじゃん?」 「それはそうだけど……。そういえば、丸井くんは結局どんな嘘をつこうとしていたの?」 ふと思って訊ねると、丸井くんはあちこち目を泳がせて首を振った。 「言わない。嘘でも冗談でも、やっぱ言えることじゃねぇし」 そう言われるととても内容が気になるけど、三猿の一匹のように両手で口を押さえる丸井くんの様子に、わたしは諦めた。 どんな内容かさっぱり予想できないけど、でも、嘘でも冗談でも言えない“嘘とは反対のこと”をわたしに対して抱いてくれているという、そんな絶対が丸井くんの中にあることが嬉しくて、わたしの気持ちは実に晴れやかだった。 すっかり冷めてしまった料理を構わずぺろりと平らげた丸井くんが「すげー美味かった」と笑って言ってくれたのに、わたしは「ありがとう」と笑い返した。 間幕 − 春休み − 自宅にて*100122
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