ごめんね、と眉尻を下げた顔に見送られて砂浜に下りたわたしは、波打ち際で足を止めた。
 自宅から程近い神奈川の海でもここ千葉の海でも、寄せては返す波の音に耳を傾けると不思議な安堵を覚えるのは、この広大な海原が生命の源 ――― いずれは回帰する先だからだろうか。砂浜に打ち上げられた貝殻を耳に当て、目を閉じてその潮騒に耳を澄ませると、余計にそう思う。
 ひょっとしたらこの安堵が、言葉の表現で聞く『母の腕に抱かれる』というものなのかもしれない。……多分だけど。

 春が近付いているとはいえ、温かいのは地上の空気ばかりで、吹き抜ける海風はまだまだ身震いするほど冷たかった。
 念のためにと持たされたストールを有り難く羽織って若干縮こまりながら、それでもわたしは波打ち際から遠くの水平線を眺めることを止めなかったし、止めようとも思わなかった。

 しばらくして来た方向を振り返ったわたしは、軽く振られた手に応えて、その手で海岸線の先を指差した。
 あちらの頭が縦に動いたことで了承を得られたと判断し、わたしは波打ち際に沿って指差した方向へと歩き出す。
 踵の上がったブーツを履いているため、たまに砂浜に足を取られて転びそうになるけど、その度に慌てて持ち直すことが何故だか酷く楽しく感じられた。お陰で気が付けば、出発地点から結構な距離を歩いていた。

「……あれ?」

 そしてもう一つ、前方に一つだけぽつんと建てられた掘っ建て小屋の存在にふと気が付く。海の家、かな?
 季節外れだし、ここに来るまで他には一切見掛けなければ、ここに一つだけ建っているのが妙だけど。砂浜に建つ建造物といえばそれぐらいしか思い当たるものがないから、間違ってはいないと思う。
 好奇心をそそられて近付いたわたしは、扉も海岸側の壁一面もない掘っ建て小屋に掲げられた看板を見て、それはもう飛び上がるくらい驚いた。

「“六角の家 テニス部”……?」

 もう一つ“庭球”と書かれている看板もあるけど、えっと……まさかここって、部室なの、かな……?
 正直ぱっと見て、どこにも部室らしい要素を見出せないのだけど。浮き輪とか潮干狩りの道具とか、海の家と言われた方が納得できるものが目に付くし。それにここからだと、テニスコートより海の方がよっぽど近いと思う。

(不思議な場所だなぁ……)

 そのちぐはぐさがおかしかったけど、小屋の裏手には学校の校舎が見えるから、海岸に隣接する学校ならではの光景と思うと、同時に微笑ましい気持ちにもなった。
 長い歴史と伝統を誇る立海とはまた別の味があって、すごくいいことだと思う。
 それに、立海では屋上からしか見えない海がこんなにも近いのが羨ましかった。

 踵を返したわたしは、テニス部の部室が正面に臨んでいる海を見つめた。
 何だか他のどの角度で見るより、ここから眺める海が一番綺麗に見えた。だからここに小屋を建てたのかもしれない。

 それからどれほど経っただろう。不意に目を向けた海岸線の先に、こちらに向かって歩いて来る人の姿があった。
 水平線を見つめて余所見をしているのにも関わらず、砂浜に足を取られることなくしっかりとした足取りであるその人は、わたしと同様に不意にこちら目を向け、わたしと目が合うと瞠目した。同時に足を止める。
 お互い無言のまま見つめ合い、先に動いたのはわたしの方だった。気まずさは不思議とないけど居心地の悪さを誤魔化すように笑うと、あちらもまたどこかぎこちなく笑い、止まっていた足を動かしてこちらへやって来る。

「こんにちは。観光客の方ですか?」
「ええ、こんにちは。地元の方ですか?」
「はい。そこの六角中に通っています」

 色素の薄い髪を持つ整った顔立ちの彼がそう言って指差したのは、掘っ建て小屋の裏手に見える校舎だった。なるほど。看板にあった“六角の家”というのは、学校の名前から取ったものだったのか。
 いや、それ以前に確か、この辺りの地名が六角だったような……?

「何年生ですか?」
「二年です。春休み明けから」
「では、わたしと同じですね」
「……えっ!?」

 何故か驚かれたことに、わたしの方こそ驚かされる。

「あ、いや。高校生か大学生くらいだと思ってたから、びっくりして……」
「……そんなに老けて見えますか?」
「老けているというより、大人びているかな」

 苦笑する彼の言葉にわたしは自分の有り様を見下ろしてみるけど、よくわからなかった。
 だけど誤解されてしまうのは、仕方のないことだ。だって、わたしは……。

「俺は佐伯虎次郎って言うんだ。君は?」
「……です」

 同じ中学二年生になる者同士とわかったからか、今までとは雰囲気も口調も変えて自己紹介してくれた彼 ――― 佐伯くんの握手に応えて、最初のぎこちないものとは比べものにならない清涼感漂う彼の笑みに、わたしもまた今度は自然な笑みを返した。
 すると佐伯くんは握手した手で口許を隠して、何故か顔を背けてしまった。

「佐伯くん? どうかされましたか?」
「……いや、さんの笑顔があまりに綺麗だったから、恥ずかしくなって」
「そ、そんなことはありません。わたしが綺麗だなんて、とんでもない!」

 それこそ恥ずかしいことを耳まで赤くした顔で口にされ、わたしまで赤くなる。
 中学生でこんな世辞をさらっと言えてしまう佐伯くんは、見た目の爽やかさとは裏腹に意外とませているというか、女誑しなのかもしれない。わたしは俯き、更にストールで顔を隠した。

「あれ、周りから言われないかい? さんみたいに綺麗な人なら、学校中の男子が放っておかないと思うけど」
「……ないとは言い切りませんが、どれも社交辞令です。そんな奇特で物好きな人だって、一人もいません」

 少なくとも同年代の人でそんなことを言って来たのは佐伯くんが初めてだ。
 拗ねた言い方になったわたしに、佐伯くんはきょとんとして、かと思えばくすくすと笑った。

「やっぱりさんは綺麗で、それに可愛い人だと、俺は思うよ」
「……佐伯くんは女誑しですね」
「ははっ、よく言われる。思ったことを率直に言葉にしているだけなんだけどね」

 わたしの意趣返しを否定するどころかあっさり認めてしまった佐伯くんは、その潔さかそれとも笑顔故か、いやらしい感じがするどころか寧ろ爽やか過ぎて、わたしは絶句させられた。
 佐伯くんだからか、それとも人間なら誰しも該当することなのか。物事って一定の度が過ぎると、本来あるべきとは全く逆の作用が働くものなのかも。恐ろしいな。

 それからも佐伯くんとの会話を続けていると、スカートのポケットに入れていたわたしの携帯電話が鳴り出した。

「ごめんなさい、連れが呼んでいるので行かなくては」
「そうか、残念だな。でもさんと話せて楽しかったよ、ありがとう」
「わたしの方こそ、佐伯くんとお話しできて、とても楽しかったです。ありがとうございます」

 差し出された手を握って今度は別れの握手を交わし、わたしは佐伯くんに背を向けた。
 そして来た道を海岸線に沿って戻る途中で「さん!」呼ばれた名前に、足を止めて振り返る。筒状にした手を口許に当てる佐伯くんの姿が、すっかり小さくなっていた。

「今度さんが来た時は、一緒に潮干狩りしよう! 待ってるから!」

 ――― その言葉は不思議と、わたしの胸にすとんと落ちて響いた。
 お互いに名前ぐらいしか知らない、つい十分ほど前に知り合った人からの社交辞令に等しい、口約束にもならない誘いだというのに。

「楽しみにしています!」

 同じように口許に片手を当てて返したわたしに、佐伯くんは笑ってくれたように見えた。
 くすぐったい気持ちに気恥ずかしくなって、わたしは砂浜に足を取られそうになるのに構わず、残りの距離を走り出した。
間幕 − 春休み − 千葉にて*100108