後にこの夏一番の猛暑日だったと判明する、日中に燦々と輝いた太陽が暮れてもまだ蒸し暑さが残る夏のある日。
 汗でべとつく身体を一刻も早く風呂に入ってさっぱりさせたいと、帰宅を急いだ幽助は公園を抜ける近道を帰路に選んだ。

 思えばこの選択が幽助の命運を分けた。


 いくら夏の日が長いとはいえ、午後七時を過ぎた空は昼から夕方へと変化するのに比べ、夕方から夜へと変化する速度があっという間だ。
 そんなことを考えながら頼りない光度の外灯がぽつぽつと設置された通路を歩いていた幽助は、とあるベンチを目に止めた瞬間に思わず足を止めた。

(そういや、あの時もこんな風に人気がなかったよな……)

 蘇るのは冬の到来が間近に迫った日。この公園で遭遇した、忘れたくとも忘れられない忌まわしい記憶だ。
 不良らしく遅刻やサボリ、その他諸々の校則違反常習者で当然の如く頭が悪い自分が、あれから半年以上が経った今もつい昨日のことのように思い出せる。それほどまでに強烈な出来事だった。
 そして同時に気が付いたのだが、時間帯や季節こそ違うものの、現状はあの当時ととても似通ってはいないだろうか。

 ――― この場にいるのは危険だ。本能的な予感に今度は一刻も早くこの場を立ち去るべく、幽助は足早に歩き出した。
 しかし、嫌な予感というのは総じて的中するものである。


「ちょっと、そこ行く少年」


 足を踏み出して五歩も行かない時だった。背中に掛けられた呼び止める声に、幽助は硬直した。
 抑揚に乏しい声は叶うなら二度と聞きたくはなかった声であり、告げられたのはとても聞き覚えのある台詞だ。だからこそ物凄く、すんげぇ振り返りたくない。
 だがここで振り返らないということは、女相手に尻尾を巻いて逃げ出したことと同義であり、そんなことは幽助の矜持きょうじが決して許さなかった。――― しかし、関わりたくない。それが幽助の本音である。
 何せ半年前のあの一件で、声の主たる女は、幼馴染とは別次元の恐怖対象にカテゴライズされているのだ。

 けれどどの道、幽助の心情に関知しない女は、あの時と同様に無情だった。

「立ち止まったのに無視するな、少年」
「……うるせー、こっちにもいろいろジジョーがあんだよ」
「そう、それは失礼」

 全く誠意が感じられない謝罪である。

 硬直する幽助の前に回り込んだ女は相変わらず、季節感がない恰好をしていた。唯一変化が見られるのは肩甲骨が隠れるほどに伸びた髪ぐらいだ。
 そんな見間違うはずのない女とこうして再会してしまった以上、幽助は腹を括った。

「で、今度は何だ? 言っとくけどな、こんなクソ暑い時季におでんやってる店なんかねーかんな」

 諦観のため息もほどほどに、幽助は先手必勝とばかりに釘を刺す。
 今度はどんな目的で声を掛けて来たのか知らないし知りたくもないが、以前女はそんなようなことを言っていたはずだ。今回声を掛けてきた目的として充分に有り得る可能性だった。

 すると女はきょとんとしばたたいた。まるで意表を突かれたと言わんばかりの反応だ。

 ――― 刹那、女の顔は幽助の眼前にあった。
 瞬きのほんの一瞬で詰められた距離に幽助はぎょっとし、反射的に飛び退く。

「い、いきなり何」
「花火」
「は?」
「もしかして少年、前に花火の火をくれた少年?」
「…………気付いてて声掛けたんじゃねぇのか?」
「いや、テキトー」

 しれっとした態度で言い切った女に、幽助は怒りや呆れを通り越して項垂れた。
 ひょっとして自分が打って出た先手は余計なことだったのかもしれない。そんな気がする。

「あの時はありがとう。あんなに笑ったのは生まれて初めてで、とても楽しかった」
「……そりゃよかったな」
「うん、ありがとう。でもそうか、うん」

 幽助の皮肉に気付かない女は何かに納得するように数度頷くと、徐に幽助の眼前に拳を突き出した。
 仰け反った幽助は半歩後退する。

「少年、手を出して」
「は、……は?」

 女に促された幽助は掌を上に向けて片手を差し出した。すると女はその上に移動させた拳を開き、握り締めていた何かを幽助の掌に落とす。
 それは粗削りながら雫の形をしている石だった。親指と人差し指で挟んで持ち上げて外灯の光に翳して見ると、石には繋ぎ目らしい箇所が見当たらないにも関わらず、内側に液体の揺れが見て取れた。不思議で綺麗で、神秘さを感じる石だ。

「感謝のキモチ。肌身放さず持つのが吉」
「御守りってことか?」
「似たようなもの。効果は保証するよ」
「ふーん……」

 曖昧な相槌を打ち、特に興味がなかった幽助はそれをズボンのポケットへ適当に突っ込んだ。

 すると女は「それじゃあ」と片手を上げて踵を返した。
 今度の目的が何だったかは結局明かされなかったが、どうやら立ち去るらしい。無意識に強張っていた肩から力が抜け、幽助はほっとする。

「――― あ」
「! な、何だよ!?」

 しかし女は何事か思い出したように声を上げると立ち止まり、振り返る。
 あまりの安堵にすっかり気が緩んでいた幽助の声はわずかに上擦った。華奢な女相手に情けない。

「少年、名前は?」
「な、名前? ……んなコト知ってどうすんだ?」
「別にどうも。少年はメンドーじゃないし、いい人だから。魂に刻んでおこうと思っただけ」

 心や記憶に刻むならまだわかるが、魂に刻むって。ちと大袈裟ではなかろうか。
 おまけにメンドーか否かはともかく、不良として悪名高い自分を“いい人”と評価した女に、幽助は思わず吹き出した。つい今し方まで内心ビクビクしていたのが一気に馬鹿らしくなる。
 突然笑い出したこちらを不思議そうに見る女に、幽助は笑いが滲んだ声音で名乗った。

「俺は浦飯幽助。そっちは?」
「……

 短く答えた女 ――― は舌に馴染ませるように幽助の名前を舌の上で転がし、やがて満足がいったのか一つ頷いた。

「それじゃあ幽助、機会があればまたいつか」
「おー、またな。あ、けど前みたいなことは二度と御免だかんな」
「……善処する」
「いや確約しろよ」

 先程まで確かにあったはずのトラウマが嘘のように消えた幽助は、その根源たると軽口の応酬を別れの挨拶にし、お互い反対方向へと歩き出した。


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