目まぐるしく移り変わる雑踏の中で、その姿を見つけた。
 それは奇跡と呼ぶに相応しい確率の出来事であり、また、本来なら在り得るはずのない出来事でもあった。しかし見掛けたのがいくら後ろ姿だったとは言え、見間違うこともまた在り得ない。
 考えるよりも先に動いた足で追い掛け、その薄い肩を掴み、引き寄せる。短い悲鳴が上がった。その声に確信する。

「どちら様?」
「……相変わらずみたいだな」

 あちらからすれば突然襲われた予想外の出来事に、抵抗する間もない身体はあっさりと反転し、奥底を流れる血潮の色を映した瞳をきょとんと瞬かせて、女は首を傾げた。その反応に蔵馬は深いため息をついて肩を落としたが、同時に苦笑が零れる。
 彼女とこうして顔を合わせるのはいつ以来になるか憶えていないが、会う度に繰り返されるこのやり取りが何回目になるかは憶えている。今回で十二回目だ。
 一見多く見える数字だが、初対面からの年数から考えれば寧ろ少ない。

 尤も、彼女の性質を考えれば仕方のない数字でもある。
 何しろ彼女を知る者の間では、人間界で言うところのツチノコに相当するような存在なのだ。彼女は。

 すると蔵馬の言葉に何か思うことがあったのか、女は不躾なくらいじっと、真正面から蔵馬の顔を見つめた。

「……ん、知らない人だ」
「人の顔と名前を憶えないどころか、そもそも憶える気がない癖に、よくもぬけぬけと言い切れるね」
「……やっぱり知ってる人かも」

 間髪を容れずに言い放たれた蔵馬の言葉に、女は渋面を浮かべてすぐに意見を覆した。しかし曖昧さがどうしても残る。
 何しろ蔵馬が言った通り、女は人の顔と名前を憶えない。覚えるつもりがないのだ。だから蔵馬と面識があるか否か、確信が持てずに曖昧さが残る。

 それこそが、女の存在を知る者たちの間で周知となっている女の性質だった。

「まあ、今のこの姿では、わからないのも尚更無理はないか」
「……じゃあいいや。サヨナラ」
「本当に相変わらずだな」

 そして固より人の顔と名前を憶える気がない女には、ただでさえ妖狐の頃の面影を残さない今の蔵馬の姿から、昔の姿が結び付くはずは到底なく。
 肩を掴む蔵馬の手を払い、女はヒラヒラ手を振って踵を返した。すると今度はその腕を掴み、蔵馬は女を引き止める。首だけで振り返った女は眉間に皺を寄せ、不快感を隠そうともしない。だがそんな反応をされようとも、蔵馬に彼女を解放する気ない。話はまだ終わっていないのだから。

「どうして人間界にいるんだ?」
「……君みたいな奴らがいるから」
「俺みたいな?」
「そっ。君みたいなメンドーなのが」

 蔵馬のことを憶えていないにも関わらず、よくもまあ、ぬけぬけと言えたものだ。
 けれど女の歯に衣着せぬ物言いに、蔵馬は怒りよりも先に笑いが込み上げた。堪え切れずに肩を震わせると、女はますます顔を顰めて嫌そうにする。
 思わず、蔵馬の中の加虐心が刺激された。

「放して」
「さあ、どうしようか?」

 すると女は蔵馬の機微を敏感に感じ取ったのか、掴まれる腕を引き寄せて逃れようとする。
 しかし蔵馬は逆に力を込めて、意地悪く言う。女の顔が歪んだ。

 その時、蔵馬は唐突に理解した。
 嗚呼、成る程。だから彼女は人間界にいるのか。

「……本当にメンドー」
「――― !?」

 言い終わるのが早いか、女の腕を掴んでいたはずの蔵馬の手は刹那、空気を握った。

 拘束を抜けた女はまるで何事もなかったように素早く、今度こそ蔵馬に背中を向け、あっという間に雑踏に紛れる。
 掌に残る感覚だけが、女がつい先程までこの場にいたことの証明だった。

 そんな性質を含めた何もかもが相変わらずで、蔵馬は喉の奥で失笑した。


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