その光景に幸村精市は困惑した。 世間的には休日に当たるが、全国大会三連覇を狙う王者 ――― 立海大附属中学の男子テニス部には、休みなんてものはあってないようなものだ。だから昼休憩を過ぎた今の時間帯、王者の彼らに相応しく設備の整ったテニスコートには、平日の部活以上の練習に励む部員たちの姿があるべきだった。 しかし、実際には影も形もない。 辛く苦しい、一度は絶望に打ちのめされた闘病生活を支えてくれた仲間や、見舞いの土産話に聞く成長著しい後輩たちに、まだ見ぬ新入部員たち。――― そして仲間に連れられて病室を訪れた、彼の心を惹き付けて止まない、この春に編入して来た可愛らしいマネージャー。 そのいずれも、彼が戻った懐かしのテニスコートには見当たらなかった。 いや、よく見れば、準レギュラー以下の部員や新入部員と思しき見知らぬ姿ならある。だが仲間の、レギュラー陣とマネージャーの姿だけが見当たらない。 そしてコートには、レギュラー陣の代わりとでも言うように女子の姿があった。 コートを囲うフェンスの外で応援するギャラリーではなく、プレイヤーとして。 複数あるコートを男女で分け合い、レギュラー陣が使っていたコートで練習する、女子テニス部の姿が。 「あら、久し振りに見る顔ね」 不意に掛けられた声に、幸村ははっとした。 弾かれたように振り返れば、同じテニス部とは言え部長会ぐらいでしか接点のない、女子テニス部の部長の姿があった。 ユニフォーム姿でラケットを手にし、休憩中なのか首にはタオルもある。 そんな彼女の姿に、幸村は新鮮味を覚えると同時に動揺した。 王者と誉れ高い男子テニス部と万年県大会止まりである女子テニス部には、その功績の差に伴って大きな待遇の差がある。特に顕著なのが設備面で、男子部のコートが夜間照明付きの立派なものであるのに対して、女子部のコートは所謂旧コート。構内の外れに打ち捨てられたも同然で存在する場所を与えられている。 つまり先述したように、男子部と女子部には接点がない。こんな部活スタイルの、制服姿以外の彼女を幸村は初めて見た。だから新鮮味を覚え、何故そんな彼女がここに、男子部のコートにいるのかと動揺した。 「どうやら手術は成功したようね。ここにいるってことは退院したのかしら。それなら、おめでとう」 「あ、ああ。ありがとう……」 社交辞令的な言葉に、在り来たりな反応しか返せない。 すると彼女はもう話すことは何もないと言わんばかりの様子で幸村の脇を抜け、コートに向かった。これに幸村は慌てる。 「待って!!」 呼び止める声は思わず大きく、練習に励む部員たちが男女も関係なく、幸村に注目した。 入部当初から何かと話題になり、人目に晒されることに慣れているはずだが、今ばかりはこの多くの視線が落ち着かない。 思わぬ注目に息を呑み、しかし沈黙できない事態に、幸村は必死に唇を動かした。 「これは、どういうこと?」 「何のことかしら?」 「惚けないでくれるか。俺は真面目に訊いてるんだ」 「失礼ね、わたしだって真面目よ。何の脈絡も主語もない質問に、他にどう答えろというのかしら」 幸村は顔を顰める。 「ここは男子部のコートだ。女子部が何でこのコートを使ってるんだい?」 「何でって、ここが男子部のコートであると同時に女子部のコートでもあるからよ」 「は? 何を言って……」 「あなたこそ何を言っているのかしら。尤もその様子だと、あなたのお仲間はあなたに何一つ伝えていないようね」 可哀想に、なんて絶対に思っていない顔で、彼女は幸村を憐れんだ。 それにしかし、幸村は苛立ちを覚えるよりも動揺する。仲間の姿が見当たらないこの状況を、今この場所に来て目の当たりにしたことで幸村は初めて知ったからだ。 「これ以上あなたと無駄話するのは時間が惜しいけど、そうね。快気祝いとして教えてあげるわ」 そんな幸村へ慈悲のつもりか、わざとらしく大仰に肩を竦めた彼女は幸村に向き直ると、瑣末なことのように告げた。 「別に大したことじゃないわ。ちょっとした賭けをしただけよ」 「賭け?」 「ええ。あなたが知るところのレギュラー陣が使っていたコートの使用権を賭けて、試合をね。勿論学校側に許可を得て、立ち会いもしてもらった公式的なものよ」 「そんな、まさか……」 彼女の話が本当なら、レギュラー陣ではなく女子部がコートを使用している現状は、つまり。信じ難い結果を意味している。 「――― う、嘘だっ!! 王者の俺たちが、真田たちが、女子部なんかに負けるはずがない!!!」 「あら、だったら何故、彼らはここにいないのかしらね? どうしてわたしたち女子部“なんか”がこのコートを使っているのかしら?」 そんなこと、指摘されるまでもなくわかっている。だがおいそれと簡単に受け入れられる訳がない。 たとえ揺らぎようのない事実が目の前に存在し、我が目にしていようとも。 「わたしの言葉が信じられないなら、彼らに会って直接確かめればいいわ。尤も、傷口に塩を塗るだけにしかならないでしょうけどね」 淡々とした態度を保っていた彼女は明らかな皮肉を最後に背を向けた。 そのまま今度こそコートに戻ると、彼女は手を止めてこちらに注目していた女子部員たちに練習の再開を促す。最早幸村の存在など意識の片隅にも残っていないようだ。幸村へ厳しい視線を送っていた部員たちも、彼女に一言注意されればあっさり視線を外し、まるで見向きもしない。 一方、男子部の部員たちは意識こそ向けてくれているものの、その場を動く気配はない。 何かを見定めようとしているのか探るような視線を送ってくる既存の部員たちと、我ながら真田のような“らしい”風格に欠けている自覚があるとはいえ、初めて会う部長を見るにしては冷たい視線を送ってくる新入部員たち。 慣れ親しんだはずのテニスコートが、今の幸村には敵地のど真ん中にしか思えなかった。 堪らず、幸村は駆け出した。 ずっと戻ることを渇望し切望した場所に背を向け、快復したばかりの身体には負担にしかならないとわかっていても、ひたすら走る。走るしかなかった。 向かっていたのは女子部に与えられていたはずの旧コートだった。そんな場所に、彼らが、仲間たちがいる訳がない。王者が負けたなんて嘘に決まっている。その嘘を暴きに、自分は旧コートに向かっているのだ。彼女の言葉を信じたからでは決してない。 その胸中と今の行動が矛盾している事実に、幸村は気付かない。 ――― そして、幸村が目の当たりにしたのは、遥かに厳しい現実だった。 「んだよ、誘ってくれたのって俺だけじゃなかったのかよぃ」 「そーっスよ! 俺デートかと思ってメチャクチャ気合い入れて来たんスから!」 「何言うとる。二人じゃ精々姉弟にしか見えん、お子様は帰りんしゃい」 「待ちたまえ、仁王くん。女性の肩に気安く手を回すなど馴れ馴れしい。彼女を放しなさい」 「ふむ。ではここは公平に、全員で遊びに行くとしよう。どうせ誰も退く気はないのだろう」 「まあ、正直不満ちゃ不満だけど、こればっかりは仕方ねぇか」 「抜け駆けしようとするなど、たるんどるぞ!」 いくら否定を口にしたところで、最早どうにもならない現実を目の前に突き付けられ、幸村は絶望した。 彼女が言っていた通り、信じ難いことに、彼らの姿は旧コートにあったのだ。剰え、聞こえて来た会話にはテニスコートにいながらテニスのことが一切含まれておらず、その無関心を裏付けるかのように彼らはいずれも私服姿で、ラケバを持ってもいない。 幸村は三度絶望した。肩に掛けていた自身のそれが地面に落ちる。 だが、“それ”は一瞬だった。 「なっ、ま、待って! 折角コートに来たんだから、今日は練習を ――― あ」 鈴が鳴るような声が聞こえた。それと同時に、彼らの誘いを振り払うようにして、彼らが作る囲いの中から一人の少女が飛び出す。高い位置で結ばれた艶のある亜麻色の髪に、小振りで筋の通った鼻と瑞々しく潤う唇。地味なジャージ姿でも決して霞むことがない、綺麗さと可愛らしさを併せ持つ容姿の、男子テニス部のマネージャーだった。 瞬間、少女の円らで大きな二重の瞳と幸村の視線が重なった。 途端に少女は驚愕を浮かべ、けれど直後には歓喜の色を示す。すぐさま幸村の許へ駆け寄って来た。 「精市!? どうして、ここに? 入院してたはずじゃ……」 「うん、今日退院したんだ」 「そ、そうなの? 良かった。――― そうだ、精市。退院していきなりで悪いんだけど、精市からもみんなにガツンと言って欲しいの!」 「ガツンと、か。……うん、そうだね」 ところどころ穴が開いている錆び付きボロボロのフェンス越しに、彼女が懇願してくる。 幸村がそれに軽く頷けば、少女は表情を輝かせて、正に大輪の花の如く満面の笑みを咲かせた。それに幸村も笑い返す。そしてコートに足を踏み入れ、幸村の登場に驚く仲間たちの許へ歩み寄った。 「やあ、久し振りだね。俺がいない間に随分好き勝手していたみたいだけど、それも今日限りだよ」 幸村の隣で、少女は笑っていた。 「彼女は俺がもらうよ」 「――― え?」 「いや、違うな。彼女自身が俺のものになることを望んでいるんだ」 けれど、それもすぐに凍り付く。 「せ、精市? 何を……言ってる、の? そんなこと、あたしは一言も……」 「でも君は今、俺を選んだだろう?」 無理に笑おうとしたのか、失敗して顔を引き攣らせる少女と、幸村の発言にすぐさま噛み付こうと口を開いた仲間たち ――― 否、恋敵たちを、幸村はその中性的で美しい面に浮かべた笑みと絶対的で圧倒的な何かを感じさせる声で制した。息を呑むような音がいくつか聞こえた。 沈黙に幸村は満足そうに更に笑み、改めて、少女を正面に捉える。 「みんなの誘いを振り払って、君は俺の許にやって来た。そして俺に縋り、俺に懇願したんだ。――― つまり、俺を選んだ」 「そ、そんなつもり、あたしには ――― っ!?」 「誰にも渡さないよ」 引き寄せられた幸村の腕の中で、少女は絶望した。 尊敬し敬愛し、大切に思っていたはずの仲間を今にも殺さんとばかりに睨み付けて敵対し、敵を同じくしても互いを牽制して、隙を見ては蹴落とさんとする。 それが強豪と言われる立海大附属中学男子テニス部、“前”レギュラーたちの、今の実情だった。 王者と謳われ、強い結束で繋がっているはずだった彼らの面影など、今や微塵もない。 フェンスの外に、持ち主に忘れ去られたラケバが寂しく転がっていた。 我ら立海大附属中学女子テニス部!・後編*120527
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