「もう我慢できません!!」 そう叫んだ後輩が、荒々しい語調そのままに部室の壁を殴った。 部活終了後、いつもならお喋り好きな女子らしく五月蝿いくらいに賑やかな部室には、だけど近頃は着替えをする布擦れの音ぐらいしかしていなかったから。元から静かだったことと相俟って、その音と声はよく響いた。自然、彼女に視線が集まる。 この空間で唯一の後輩である彼女は、そんな状況に、けれど物怖じした様子は一切ない。普段の謙虚さから考えれば在り得ないことだけど、見方を変えれば、それだけ頭に血が上っているのだとも取れる。周りが見えなくなってしまうくらい。 普段大人しい人間が怒ると怖い、なんて言葉の正に体現だ。 試合中にしか発揮されない気の強さを持った子が、その気迫に気圧されているのが横目でも見て取れた。 「あの女が来てから、もう何もかもメチャクチャ! あんなっ、あんな堕落した男子部の姿なんて、もう見てられません!!」 悲鳴じみた嘆きだ。 「……そんなの、あんただけじゃないわよ。あたしたちの方が、あんたより一年長くあいつらのこと見てたのよ」 「しかも鬼みたいに強い人間が同学年に三人もいるんだから。性別の違いを差し引いたとしても圧倒的な実力差に、一体何度絶望して、どれだけ嫉妬したかわからないわ」 「でも同じくらい、ぼくらにとって彼らは憧れでもあるから。信じられなくて、信じたくなくて……夢だと、思いたかったんだよ」 それは彼女に限らず、誰しもが抱いている感情だった。 何代も前の先輩たちから受け継がれる数々の功績から優遇されている彼らと比較され、なかなか日の目を見ない他の部活は勿論だけど。自他共に認められる王者である彼ら男子テニス部とは対照的に、万年県大会止まりのわたしたち女子テニス部は、特に。 一方で、わたしにとっては疾うに過ぎた感情だった。同調するなんて今更。最早彼らにそんな価値を見出せない。 だって、わたしが彼らに嫉妬し憧憬していたのは、飽く迄もテニスに関してだけだから。 三年に進級したのと同時に編入して来た可愛らしい女の子に傾倒し、マネージャーへ引き込み、四六時中彼女に構ってばかりで、練習ではなく彼女の気を惹こうとするパフォーマンスでしかないテニスをするようになった。そんな彼らの一体どこに、これまで通り嫉妬し、憧憬しろと言うのかしら。 いくら彼らの眉目が整っていて女子の間で人気だろうと、テニスをしない彼らは、わたしにとって全くの無価値でしかないのだから。 無価値なものに割く時間も感情も、生憎だけどわたしは持ち持ち得ていないの。 だから、最早わたしには、彼らのことなんてどうでもよかった。 けどそれは、わたしに ――― わたしたちに、迷惑が掛からなければの話。 書き終えた部誌を閉じると、その音は思いの外室内に響いた。立ち上がればますます、今度はわたしに視線が集中する。 自分が今どんな表情をしているのかは鏡がないからわからないけど、よっぽど怖い顔をしているのかもしれない。一年生の頃から切磋琢磨し合ってきた仲間は勿論、わたしが目の前まで歩み寄った後輩まで、怯えたような顔をしていた。 「……彼らのために、あなたが心を乱すことなんて一つもないわ」 言って、先程彼女が壁を殴った手を取る。案の定すっかり赤くなっていた。 剰え随分強く拳を握っていたらしく、掌には爪の跡がくっきりと残り、血が滲んでいた。利き手なのに、これではラケットを握るのに支障が出てしまう。 棚の近くにいた子に救急箱を取ってもらい、消毒して絆創膏を貼り付けた。 「部長は……」 処置を終えて救急箱を片付けていると、後輩に震えた声で呼び掛けられた。 見れば彼女は処置したばかりの手が白むほどまた固く拳を握り、肩を震わせていた。泣いているのかと思ったけど、次の瞬間、顔を上げた彼女の瞳には確かに涙が滲んでいながらも、それにも勝る憤怒の色が見て取れた。 それこそ、声や肩が震えてしまうほどの。 「部長は、今の男子部を見て何とも思わないんですかっ!? 学校側からも父母会からも生徒たちからも期待されて優遇されて、打ち捨てられたみたいな旧コートで必死に練習してるあたしたちなんかより、ずっと整った環境を与えられてるのに!! 練習どころかテニスすらしてない男子部を、あんなレギュラーたちを見て、何とも思わないんですか!!?」 「ちょ、ちょっと、あんた! あたしたちの言葉聞いてなかったの!? そんな訳 ―――」 今さっきまで怯えていたのが嘘みたいに噛み付いて来た後輩に、元はライバル関係から始まった友好を築く親友にして副部長が、声を荒げる。 でもそれを、わたしは制した。 毛を逆立てる猫みたいな後輩に向き直り、そしてわたしは意識して深く、擬音を付けるなら“にっこり”と笑った。 「ええ。何とも思わないし、どうでもいいわ」 「なっ……!?」 「彼女たちが言う通り、わたしにとっても男子テニス部が嫉妬と憧憬の対象であることは認める。でもそれは飽く迄、テニスに関してだけよ。あなたが言うようにテニスをしていない彼らに、わたしは微塵の興味もないの」 この告白には後輩だけではなく他のメンバーも絶句している様子だった。 親友兼副部長も最初の内は言葉を失っていたようだけど、流石は親友ね。わたしという人間を理解しているだけあって、すぐに得心がいったようだった。 「彼らが恋に溺れ、テニスをしなくなった。それは別に構わないわ。彼らの私生活に他人がとやかく言う資格はないもの。もともと同じテニス部である以外、弱小の女子部と強豪の男子部に繋がりはないし、個人的に仲がいい訳でもない。精々、部長の幸村と事務的なやり取りをするくらいね」 「……だから、男子テニス部がどうなってても、関係ない?」 「そうよ。テニスをしなくなった彼らという“個”がどうなろう、わたしが知ったことではないわ。――― でもね、一つだけ気に食わないことがあるの」 同じ二年生レギュラーでも、男子部の感情的で短慮な子とは違って冷静で視野の広い後輩は、一時の高ぶりからもう落ち着きを取り戻している。 そんな彼女と、これから始める話へ興味深そうにしている仲間たちを見回して、わたしはまた更に深く笑った。 「テニスをしていない人間に、テニスコートは無用の長物だと思わない?」 我ら立海大附属中学女子テニス部!・前編*120418
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