さて、話はまず、なんと二週間ほど前にまで遡る。

 早くも桜が散り出す中で快晴に恵まれたこの日は、大抵の学校で新年度の始まり、始業式に当たった。
 四天宝寺中学もまた例に漏れず、しかも今年度は翌日に控える入学式よりも一足先に、“二人”の新人を迎え入れることになっていた。――― つまり、転入生が来るのだ。共に第三学年へ。それも北と南の対極から。

 お察しかとは思うが、南からの転入生は熊本からやって来た千歳のことである。
 尤もその日の学校は式と簡単なHRが終われば解散の流れになっており、重役もびっくりな重役出勤振りで登校して来た千歳が同級生たちに紹介されたのは後日。やはり盛大に遅刻をして来たために、それも帰りのHRでのことであった。

 一方、北から転入生だが、“彼女”は千歳とは対照的にどの生徒よりも先に学校へとやって来ていた。
 そう、ちゃんと登校していたのだ。
 では何故、彼女は生徒らに紹介されていなければ、そもそも存在すら知られていないのか。

 ――― 渡邊によれば、それは一瞬の出来事だったという。


「ほら、先生方にご挨拶は?」

 教師でさえもまだ疎らな時間帯の職員室へ、後見人という男性に同伴されてやって来た北からの転入生は、そう促されて身体を強張らせたようだった。それでも恐る恐る、身を隠している男性の陰から本当にほんの少しだけ顔を覗かせる。けれど誰一人として彼女の顔を認識する前に、その姿はまた男性の陰に隠れてしまった。
 人見知り、だろうか。それにしては何かが違うような気がする。何や絡み難そうな子やな。
 そんな直感が、笑いのためなら捨て身も無茶振りも厭わない四天宝寺の関係者である彼らに躊躇を与えた。

「すみません。この子、ずっと小さなコミュニティーの中で育ったから、外の人に馴れてないんです」
「は、はあ……」

 だからつい、苦笑する男性のフォローに、何とも平凡で差し障りのない、曖昧な反応しかできなかった。
 四天宝寺の関係者として、何たる屈辱だろう。おのれ、この転入生なかなかやるやないか。なんて、お門違いもいいところである。

 渡邊が職員室にやって来たのは、そんなタイミングだった。
 それも男性の陰から出ようとしない彼女が、それ以上に頑なになって動こうとしなかった、彼女の背後にある戸から。ガラリ。唐突に。

「おはようございますー……ん? 見ぃひん顔のお嬢さんやな。あ、もしかして例の転入生さんか?」

 男性が壁になっていて、その時彼女がどんな表情をしていたかなど諸々を、渡邊以外の人間が知ることはかなわなかった。ただ何となく、次の展開は読めた。
 限られた世界で限られた人間としか接したことのない人間が取る行動など、可能性はそう多くない。特に彼女の場合、男性の陰に隠れている現状から、可能性はますます絞られた。
 ただ現実は、彼らの予測より少々 ――― 否、かなり過激で過剰だった。

 瞬間、男性の陰から“影”が飛び出した。
 “影”は余程動体視力に優れた者でなければ捉えられない素早さと身軽さで、新年度開始のあれやこれやで雑然としている職員室を突っ切る。そして春風を室内に招くために開放されていた窓へ直行し ――― 外へと飛び出した。因みに四天宝寺中学の職員室は二階に位置している。
 つまり“影”は ――― 彼女は二階の窓から飛び下りたのだ。


「はあああああああああああっ!!?」


 誰のものともつかない悲鳴が上がり、一同はすぐさま窓に張り付いた。
 彼女がいとも容易く飛び越えた転落防止用のポールから身を乗り出して下を覗き込むが、そこに彼女の姿はない。代わりに、あっという間に小さくなる後ろ姿を遠目に捉えることができた。

「あー……やっぱりこうなかったか」
「は? や、やっぱり……?」
「ええ。私の時も、あんな感じだったんです。いやぁ、会うなり自己紹介すらさせてもらえずに逃げられましてね。あの子、一週間ぐらい帰って来なかったんですよ」

 あははっ。なんて最後には笑いながら言う男性に、四天宝寺の面々は「え、今のって笑うとこなん?」大いに戸惑った。

「確かこの学校、裏手に小さな山がありましたよね? あの子のことだからそこに逃げ込んだと思うんで、気にしなくても大丈夫ですって」
「い、いや、流石にそれは……」
「なぁに。私の時みたいに、一週間もすればひょっこり戻って来ますよ。ただ騒ぎになるとアレなんで、あの子のことは内密でお願いします」

 あははっ。とまた笑った男性は「それじゃあ、私は仕事があるんで失礼します」と一礼して退室した。
 ……おいおいおい。あっさりし過ぎやろ。何やこの決死のボケを流されたみたいな遣る瀬ない微妙な空気は。居た堪れないんやけど。

 ちゅーか、え? あの人、ほんまに帰ったん? えっ?

 図らずも全く同じ動揺を抱える羽目になった教師陣の憐れなことと言ったらない。
 いくら後見人の男性自身から許可が出ていても、これから卒業までを預かることになっている余所の家の御子様を、推測だが行方を把握しているとはいえ放置する訳にはいかない。何よりこの事態を招いたと言えるキッカケがこちら側にあるのだ。
 あの時、渡邊先生がせめて別の戸から入って来ていれば……ん?

 ぐるり。一斉に自分を振り返った複数の視線に渡邊は頬を引き攣らせた。

「あ、あの、先生方? ここは一度冷静になって……」
「渡邊先生」
「……。……はい」

 一度名前を呼ばれただけだったが、その一言にすべてが籠もっていた。
 更に、彼女の顔をちゃんと見たのも把握しているのも渡邊先生だけですし。なんて後付けまでされてしまっては、渡邊には是としか答えられなかった。……否、是と答えることしか赦されなかった。

 斯くして、渡邊の苦労は始まった。
 だが渡邊の普段のいい加減さを知る人間からすれば、これまでのツケが一気に回って来た自業自得であると。同情の余地など微塵もない。

 事実、これからおよそ“二週間後”にこの話を知った教え子の何人かは、渡邊の不運を嗤った。


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