火曜日。顧問の渡邊オサムによるお笑い講座・ボケという、テニスと一体どんな繋がりがあるのか甚だ疑問な練習予定に当たるこの日。しかし放課後をいくら過ぎても彼は一向に姿を現さなかった。
 基本的には自由参加の講座だが、今日は予定を少し変更し、先日決定したばかりの新レギュラーによる初ミーティングの日だというのに。
 もともと奔放というか、教師らしからぬ自由人であるとは言え、あれでも三十路近いいい大人である。予定を忘れたとか、趣味の競馬を優先したとか、そんなことはないと思う。思いたいが、流石にこれは遅過ぎではなかろうか。携帯を開き、表示されている時刻を確認した部長の白石蔵ノ介は眉を顰めた。

「なあなあ、しらぁいしぃ。オサムちゃんはまだなーん?」

 すると良くも悪くも期待の新人、入学間もない一年生にして驚異の身体能力を武器にレギュラーの座を射止めた遠山金太郎が愚図り出した。
 こちらも渡邊と同じ奔放な自由人、と言うよりも野生児で扱いが難しいものの、過ぎるくらいに純粋で素直な性根のお陰で御し易いことが幸いしている。どうにか大人しくミーティングの席に着かせることはできたが、停滞している現状にそろそろ限界のようだ。素直さに伴って我慢が苦手であることを考えると、寧ろよくここまで堪えたと言うべきだろう。

「ここまで音沙汰ないと、やっぱり忘れとんのとちゃうか?」
「あー……わかった。職員室行って呼んで来るわ」
「ちゅーか、こっちも一人足りてへんけどな。そっちも探しに行った方がええんやない?」

 副部長の小石川健二郎の台詞に擁護の言葉が見つからず、白石はため息をついた。
 仕方なく重い腰を上げると、そのタイミングで今度は級友でもある忍足謙也から別の意見も出る。

 白石はまたため息をついた。謙也の言う通り、新レギュラーは現在部室に集まっている面々以外にもう一人いる。
 この春に転入して来た、中学テニス界で九州の二翼と呼ばれる選手の片翼 ――― 千歳千里。渡邊や金太郎と同じ自由人にして、本当の意味での自由人である。
 何しろ千歳千里と言う男、転入初日から盛大な遅刻をしたにも関わらず悪びれるどころかへらりと笑い、初回の授業は堂々のサボり。渡邊に勧誘されて入部したテニス部にはレギュラー選抜の日に一度だけ顔を出した切りであり、そもそも学校への登校頻度自体が限りなく底辺を行くのだ。事実、今日の彼の出欠は言わずもがな。これを自由と言わず何と言う。

 先輩たちを押し退けて部長に任命された昨年度以上に、早くも頭が痛い。胃がキリキリする。
 こめかみを押さえ、白石は三度ため息をついた。

 その時だった。


「――― もののけ姫たいっ!!!」

 破壊音に等しい乱暴な音と同時に、突如話題の人物が部室に飛び込んで来た。
 二メートル近い巨体に見合わない可愛らしさを附与させる円らな瞳を爛々と輝かせ、本人の性質を表すかのようにふわふわとした髪に、一体今までどこにいたのやら葉や枝を差している千歳千里その人だ。

「……はあ?」
「もののけ姫って、山犬に育てられた女の子がヒロインの……?」
「サンたいっ!!」
「そんな情報どうでもええっすわ」

 騒々しい登場の仕方か或いは意味不明な第一声にか、固より険しい目付きに更なる険を乗せた一氏ユウジが顔を顰める。
 一方で彼のダブルスパートナーにしてお笑いの相方でもある金色小春は、女性的な仕種で頬に手を当て、千歳の第一声について記憶を手繰り寄せる。
 これに一氏に負けず劣らず目付きが悪く無愛想な財前光が一刀両断した通り、千歳のかなりどうでもいい注釈が入った。打ち合わせしていたのかような見事と言える一連の流れだったが、如何せん個々で温度差があり過ぎる。彼らが好むお笑いには程遠かった。

「ちゅうか千歳、自分学校に来とったんなら何で授業サボっとんねん。今かて火曜にミーティングやるてレギュラー決めの時に伝えとったやろ」

 そして白石が、飛んで火に入る夏の虫宜しく現れた千歳へ、ここぞとばかりに苦言を呈した。

「そんなことよか! もののけ姫がおったと!!」

 しかしやはりとでも言うか、千歳は反省するどころか、こちらの話を欠片も聞いてはいなかった。
 鼻息荒く興奮し切りで、情報でしか知り得なかった先入観と印象がそのマイペースっぷりに覆された初対面の時と同じく、その印象をまた更に覆す変貌振りである。興奮のあまり支離滅裂になっている発言は全く以て要領を得ない。
 その勢いに気圧された訳ではないが、ここは黙って話を聞いてやるのが得策と判断し、白石は何とも無駄の多い千歳の話に仕方なく耳を傾けた。

「……つまり、や。寝坊して重役出勤かました挙句に授業をサボり、昼寝場所を探しに学校の裏山行って今の今まで寝とったと。そんで起きたら見知らん女の子が自分の顔を覗き込んどって、千歳が目ェ覚ましたのに気ぃ付いた途端、あっちゅう間に木立の向こうへ消えてしもうたと。ふーん、へぇー、ほぉー……喧嘩売っとんのかおんどれぇぇえええ!!?」

 が、そうして得た“まとめ”は白石の人間性を変えるに充分な内容であった。
 お、落ち着くんや白石!
 気持ちはようわかるけど暴力は流石にアカン!!
 今にも千歳に殴り掛かりそうなほどいきり立つ白石を、小石川と謙也は必死に押し止める。

 普段大人しい人間ほど怒ると怖いとはよく聞くが、部長として常に冷静であり、羽目を外しがちな面々を諫める側にいる白石が怒髪天を衝いたことで、場は混沌と化した。
 金太郎なんて、白石の左手に巻かれた包帯の下に“毒手”と言う文字通りの毒の手があると思い込んでいることから、白石に対してただでさえ恐怖心を抱いているというのに。白石の激昂振りに尚更怯えて、石田銀の頼り甲斐ある巨躯の陰に隠れてしまっている。

 そして“そこ”へ、新たなる混沌の種が現れた。


「千歳……今の話、ホンマなん……?」

 どこか呆然としているその声に、一同の注目は千歳が乱暴に開け放ち、壁に当たって跳ね返ったところで中途半端に開いたままになっている部室の出入口へと向いた。
 センスを疑う上に、ネタのつもりなのか薔薇柄のチューリップハットを被り、皺だらけの白衣を着ている。彼らが待ち草臥れていたテニス部の顧問、渡邊オサムの姿がそこにあった。けれど、のらりくらりとしたいつもの渡邊とは、どこか様子が違う。
 だが観察眼に優れる一氏がそれを指摘するより先に、渡邊は動いた。

「――― どこや!? その女の子、裏山のどの辺りで見たんや!!?」
「え? っ、ちょっ、……く、首がし、まっ、……!!」
「オサムちゃん!!」

 渡邊のこの突然の暴挙に小春が悲鳴じみた声を上げ、二人の間に割って入る。
 お陰で解放され、千歳は大きな背中を丸めて激しく噎せた。その姿にいい気味だと歪んだ感想を抱いた者がいたのだが、それが誰とは敢えて言わない。

「オサムちゃんが取り乱すなんて珍しいっすね」
「どうかしはったんですか?」

 言外に揶揄を含ませた財前とは違い本当に渡邊の様子を心配している石田に、こちらも小春のお陰で我に返った渡邊は、けれども言葉を濁らせた。
 だがしかし、渡邊の闖入と乱れっぷりに冷静さを取り戻した白石が「人のこと散々待たせときながら、まさか黙りを決め込む訳ないよなぁ? オサムちゃん?」と若干の八つ当たりを匂わせて凄んできたため、その非を否定できなかった渡邊は止む終えず口を割った。

 ……別に年下相手にビビったからではない。それだけは断じて違う。


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