第一志望である立海大の中等部へ無事入学を果たし、念願だったテニス部に入部した、その日からだ。
 俺を取り囲む世界、環境から、徐々に色が失われ始めたのは。

 最初のきっかけは、俺がJr.大会優勝者と知っていたレギュラーの一人に吹っ掛けられた試合で、圧勝したことだった。それも聞き苦しい言い訳が利かないくらいコテンパンに、だ。
 それは覆しようがない年齢差と、母親似の俺の女顔を理由に見縊みくびるあちらの態度に、カチンときてのことだった。とは言っても、本当に強豪と言われるテニス部のレギュラーなのか疑わしいほど手応えなんて全くなくて、五分の力も出すに至らなかったんだけど。

 それでも、相手は曲がりなりにも全国に名を轟かす立海大テニス部のレギュラーだ。
 つい一ヶ月前までランドセルを背負っていた中学生になりたての一年が圧勝して、周りが騒がない訳がなかった。

 この圧勝のお陰で入部早々レギュラー入りできたのはよかった。でもその喜びと引き替えに、いつどこで何をしていても集まる注目によって、日常生活の方は芳しいものとは言えず。
 同じ新入部員たちから向けられる畏怖と、先輩たちから向けられる嫉妬や嫌厭。テニス部ではない人たちからも、女子には女受けする外見と相俟って黄色い声を上げられるし、理不尽にもその所為で同性からは顰蹙ひんしゅくを買い、一体何度身に覚えのない因縁をつけられたかわからない。
 唯一救いだったのは、この境遇に立たされたのが俺一人じゃなかったことぐらいだ。

 でも、世界から色が失われ始めたことに変わりはなかった。
 そしてゲームに勝利する度、トーナメントを勝ち進む度、喪失はその速度を増した。

 ――― 全国制覇を成し遂げた時には、世界は灰色に成り果てていた。


 たった一人、鮮やかに輝く彼女だけを残して。



「……あれ? 来てたの?」

 パタンと本が閉じられた音に、うつらうつらしていた意識が浮上する。
 すぐ隣を振り仰ぐと、それまで読書に耽っていた彼女は、もう一時間近く前にやって来た俺の存在にようやく気付き、瞠目していた。
 その反応に、何だか悪戯が成功したような心地がして、思わず笑みが零れる。

「うん。もしかして迷惑だったかい?」
「まさか。でも来てたなら、一声掛けてくれればよかったのに」
「集中してるみたいだったから邪魔しちゃ悪いと思ってね。ところでその本、そんなに面白いのかい?」
「うーん、話としてはまあまあかな。けど言葉選びがとても綺麗でね、そこは素敵だなって思ったよ」

 いつも通りテンポのいい応酬に頬が緩むのを自覚する。
 同時に胸の奥にあったわだかまりが解けていくのを感じて、さっきまでの微睡みが戻りふわふわと心地いい。

 嗚呼、やっぱり彼女の、さんの隣は落ち着く。
 先輩も同輩も後輩も、更には教師陣までもが俺を、俺たちを特別視して羨望し嫉妬し、時には嫌厭するけど。そんな評価に囚われないさんといる時だけは、ただの中学生でいられる。
 それが嬉しくて、幸せで、何よりも手放し難い。

 依存、してしまう。

「……眠いの?」
「え、あー……少しだけ。ごめん、話の途中なのに」
「ううん、気にしないで。だけど、疲れてるなら早く帰って休んだ方がよくない?」

 そう心配を滲ませるさんの気遣いが、不謹慎だけど嬉しい。
 でも部活が忙しい俺には、こうしてさんと過ごせる時間は凄く貴重なものだから。
 素直に帰ってしまうのは口惜しくて、ぼんやりする頭でゆるゆると首を振る。そしたらさんが苦笑する気配がして、幼稚な駄々をこねたことに呆れられたのかと思ってぞっとしたけど、ふと頭を撫でられたことでほっとする。

「お疲れ様」

 優しい声に告げられて、幸せと心地良さのあまり泣きそうになった。

 さんが当番を務める、図書室のカウンター内。
 椅子に座るさんと、その傍らで行儀悪くも床に座っている俺。
 放課後、俺とさんの、二人だけの時間。


 ――― この“今”が永遠に続けばいいと思う俺は、もうとっくの昔に、彼女なしでは生きられなくなってる。

幸村精市の場合*110630