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 恐ろしいほど静かな声音で名前を呼ばれ、は肩を揺らした。
 俯いてしまっているため壱がどんな顔をしてその音を口にしたかはわからない。だけどきっと、その声と同じで静かな表情をしているのだろう。何の感情も感じさせない、無表情であって無表情ではない。本当にただ、静かな表情で。

「なあ、。俺さ、お前が寝てる間、ずっと考えてたんだ。お前がどうして自分を刺して、死のうなんて馬鹿な真似したのか、ずっと。だってお前は俺の、『壱』の物なのに。『壱』は一言も死ねなんて言ってないのに、お前が自分の命を擲ってでも守ろうとしたのは『壱』じゃないのに。ずっと考えてた。そしてひとつ、ある可能性 ――― 正しくは俺の願望だけど、思ったんだ」

 気配が、声が、近付いて来る。
 しかしには身じろぐことひとつできなかった。

「ターミナルでの一件を覚えてるか? お前は俺の『忠告』を破ってあいつらのところに行き、そして今回の一件だ。――― お前が『壱以外の言葉』に、『自分の意思』に従ったのは、今回は初めてじゃない。だろ?」

 はまた、肩を揺らした。
 拳を握る手は赤みを通り越して白くなっている。

「別にそれを責めてるんじゃない。前に言ったろ? お前は『』という一人の人間で、これからは自分の頭で考えて、他人の言葉じゃなく自分の意思に従って行動するんだ、って。だからって死のうとするのは極端すぎて赦せたものじゃないけど、だけどさ、俺は嬉しかったんだ。どういう形であれ、お前が俺に『意思』を見せてくれたから、さ」

 ひどく優しく告げられる言葉に、声に、は恐る恐る顔を上げた。
 の正面に、と視線を合わせるように膝を付いた壱は ――― 笑っていた。酷く優しく、柔らかく。泣きそうに。

「確かに俺は『壱』だけど、『壱』である以前に、ただの一人の男なんだよ。お前だってそうだ、お前はもう昔のお前じゃない。『』だ。だから、もう、いいんだよ。自分の意思で思うように生きていいんだ。『壱』の名にも存在にも縛られることはない。お前だって俺と、俺たちと同じ ――― お前は『人間』なんだから」
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 でさ、一先ずお前の ――― のこと、抱き締めさせてくれないか?
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 腕の中に納まる懐かしい熱に、柔らかさに、壱は泣きたいほどの感動を覚えた。
 消えることがなかった冷たい熱が溶かされ、新たな熱によって満たされていく。間違いなく生きているのだと、無機質な電子音ではないの本当の鼓動を感じて、喜びのあまり泣きそうになる。

 生きるということが如何に幸福で、同時に如何に不幸せなことか。『普通に』暮らしてきた人間が知ることのないその当たり前が如何に特別なものであるかを、壱は知っている。
 自分たちが生き残るため、多くの命を奪い、自身の命もまた幾度となく危機に晒されてきたのだ。大多数の人間が当たり前に享受している『普通』がどれだけ特別で、得ることが難しいことかも知っている。

 ――― ただただ、『普通に』生きたかった。

 道具として人形のように育てられ、だけれどひらひらと舞う蝶の一羽で笑うことのできる少女と。
 それが自分のエゴで押し付けで、少女が心から望んだことでなくても。
 彼女が欲しかった。彼女だけが欲しかった。彼女が以外には何もいらなかった。
 ――― その笑みがもう一度見たかった。今度は自分に向けて、自分にだけ笑って欲しかった。

 彼女の隣で、彼女と一緒に、彼女がいるから得られる、彼女がいなければ得ることのできない、そんな当たり前が欲しかった。
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 いつもよりもずっと力強い、圧迫のされ過ぎで窒息してしまいそうになる抱擁に、は戸惑った。
 壱がこうしてを抱き締めるのは珍しいことではない。彼は猫のような気まぐれさで抱き締め、すぐに離れることがあれば一日中離れないこともある。珍しいどころか、からすれば不定期に訪れる行事のようなものだった。

 だけど今日は違う。
 腕にこめられた力の強さとか、抱き締める前にわざわざ了承を取ってきたことだとか、そういうことではない。
 違うのは壱ではない、寧ろ自分の方だ。圧迫されている肺とは違う、もっと身体の中心。心臓の辺りだ。まるで誰かの手に直接心臓を握られているかのように、締め付けられて、苦しい。

 ――― 完全な否定だった。それまで自分を『道具』だと、『壱』に使われるだけの価値しかない意義を、他でもない『壱』自身に否定された。いや、どちらかといえば拒絶に近かった。
 それはを死に追いやるには十分過ぎる威力を持つ言葉だった。
 だけど自分は死んではいないし、死にたいくらいの絶望感を覚えているのに、同時に死にたくないとも思っている。

(私、は……『』。壱がくれた名前。私は、

 親がくれた本当の名前は知らない。与えられていなかった可能性だってある。
 しかしこの名前以外に自分を表す言葉を、は知らない。
 戦場に立つ自分を畏怖した呼び名はあるけれど、あれはの名前であって、の名前ではない。だってはもう『道具』ではないのだと、壱たちと同じ『人間』なのだと『壱』が言っていた。
 『壱』が言っていたけど、その『壱』もまた、の絶対ではないのだという。ただの一人の男なのだと。

 よくわからない。自分には難し過ぎる話だった。
 だけど、ひとつ。思うことがある。

「わた、しは、『道具』でない私、は……壱にと、て……必要のない、存在、ですっ、か?」
「――― の方こそ、『壱』じゃないただの俺は、お前にとって必要か? 『壱』じゃない俺は要らない?」
「わ、たし、はっ……!」

 壱の言うことは自分には難し過ぎて、よくわからない。
 だけどひとつ。ただひとつ、思うことがある。

「壱が、壱が壱だから……壱と一緒に、いたい。離れたく、ない」

 ――― 抱き締めたい。
 は初めて、痛いくらいに苦しい抱擁に応えた。
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 わかったような気がします。あなたがずっと、私に伝えようとしていたこと。
 それが一体何か。今更、今になってようやく。

 『道具』である私にとって、『壱』は掛け替えのない存在。至上です。
 それが骨身に刷り込まれている私の考えが変わることは、恐らく一生在り得ないでしょう。その『壱』に何を言われたとしても絶対に。それが私の基本理念であり、存在する意義なのですから。

 ですがそれ以上に、『』である私にとって壱は、『あなた』は、大切な人です。
 あなたがたとえ『壱』ではなくとも、私はあなたを失いたくない。至上である『壱』より、『あなた』がいい。


「『あなた』が『壱』を継がれた日、『あなた』は壊れ掛けだった『道具』である『私』に、「生きろ」と仰った。なら、生かしてください。『あなた』が人間だと言う『私』を。――― 私はあなたと共に生きたい」
20091023