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「 」知らない、聞き覚えのない女の声が誰かの名前を呼んだ。しかし何という名前かはわからず、聞き取ることはできなかった。だが女の声が告げているのは間違いなく誰かの名前だった。聞こえないはずなのに伝わる響きからして、 あやすように。慈しむように。まるで腫れ物に触るかのような柔らかい声だった。 「 」 今度は男の声が、女と同じ女子の名前を呼んだ。 やはり甘く優しく、何よりも自分が知り得ない感情に満ち溢れた声音だった。 呼ばれているのは自分の名前ではないのに、まるで自分が呼ばれているような錯覚に陥る。 誰だか知らない名前の主を、酷く羨ましいと思った。 ――― 或いは見も知らぬ自分の両親も、自分の本当の名前をこんな風に呼んでくれたのだろうか。 わからない。わかるはずがない。赤子の頃に戦場で拾われたという自分の出生など知りようがない。知らなくてもいい。 (私しか知らない私は所詮、『私』にしかなれない……) 189
目覚めと同時に、は己が取った『目覚める』と言う行為に失望した。量るまでもない命が生き長らえ、では量るまでもなく遥かに価値のある命は一体どうなったのか。考えただけでぞっとし、今すぐ確かめなければ気が済まなかった。考えるまでもなく病院にいるとわかる状況に飛び起き、人工呼吸器や点滴の針など動くのに邪魔になる物をすべて取り払い、ベッドを降りようとする。 「――― っ!?」 しかし、の身体はが望んだのとは違う形でベッドを出る羽目になった。 思うように力が入らなかった身体は一回転してベッドを転がり落ち、強かに背中を床に打ち付ける。咄嗟の受身が取れないほど身体は弱り切っているらしい。一体自分はどれほど眠っていたのだろう。 急に動いたのがいけなかったのか、腹部にじくじくとした痛みが走る。自ら太刀を衝き立てた箇所だ。着せられている患者着を捲って見れば、縫合されているらしい傷口は治り掛けなのか、幸い出血はなかったがガーゼが当てられていた。 やはり、自分は生きているのだ。 は近くの適当なものにしがみ付いて立ち上がると、通路に面した壁がガラス張りになっている部屋の出口に向かった。スライド式の扉を開け、外に出る。早くも息切れを起こしている自身に舌打ちが出た。 するとバタバタと慌しい足音が聞こえて、は顔を上げた。駆けて来た女性の看護師が自分を見てぎょっとした顔をする。 「さん!!? 意識が戻って ――― いえ、それより何をしてるんですか!!」 「……き、は……っ?」 「とにかく早くベッドに戻って、起きたばかりでそんなに動き回ったら」 「銀時は、新八に神楽、十四郎、総悟、退はっ……!?」 「え? あ、ああ、大丈夫ですよ。皆さん怪我人とは思えないくらいピンピンしてます。それより早くベッドに」 「――― ?」 190
それは自分にとって何よりも尊くて、けれども今一番聞きたくない声だった。自分をベッドに戻そうと必死な看護師の声など耳に入らず、は声がした方を振り返る。自分の着物とよく似た型の、まるで死装束のように白い着物を着た男が呆然と立ち尽くしていた。記憶にある最後に見た姿よりやつれている気がする。 「い、ち……」 呟き返したの声は震えていた。 同時に爆発するように膨れ上がった罪悪感に、は肩を震わせた。咄嗟に、身体はまるで壱から逃げるように退き、けれども思うように力が入らないのだということをすっかり失念していたは体勢を崩し、尻餅をついた。 すぐさま看護師が支え、壱もまた弾かれたように駆け付けようとする。 「――― 来ないで!!」 しかし、今まで一度たりとも聞いたことがなかったの叫び声に壱は足を止めた。 壱が初めて受けるからの明確な『拒絶』だった。壱は言葉を失って瞠目する。 「来ないで、ください……わたしは、もう、『壱』の物では、いられない。『壱』以外の言葉に従った、わたし、は、もう……」 にとって『壱』は至上だ。その『壱』に反するということは、『道具』としての意義を失うということだ。 『道具』としての価値を失った自分には『壱』と共に在ることはもとより、存在している意味すらない。あの時のことがたとえ敵の支配下にあったの意思に反した行為でも、『壱』以外の従ったという事実は変わらない。 それはにとって大罪だった。 20091021
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