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 ――― 在り得ない。
 男は幾度目になるか知れない否定を心中で繰り返し、しかし目の前に存在している現実から目を逸らすことができなかった。

 男が初めから捨て駒にするつもりで雇った雑兵たちの数は全部で百に及んでいた。
 どれも裏の世界で生きてきた者たちばかりで、中にはそこそこ腕を知られた戦士もいた。どれも己の身一つで生き抜いてきたような連中ばかりのため仲間意識というものに乏しく、故に連携というものを不得手にしている連中ではあったが、各自が持つ経験値が優れているためにちょっとやそっとで負けるはずがないと、そう踏んでいた者たちばかりだ。
 相手は一族最強の称号を持つ『壱』のため、そう簡単にそんな連中に倒せるとは思っていなかったが、傷の一つや二つぐらいは負わせられるだろう。男はそう読んでいた。

 ――― しかし、現実はどうだ?


「ったく、こんな雑魚共でも数さえいれば俺に勝てると思ってたんだろうが、これじゃあ腹ごなしの運動にもなんねーよ。舐められたもんだな。それともお前にとって『壱』の称号はこの程度のものってことか?」

 すべての敵を造作もなく斬り捨て、赤黒く染まった衣にはしかし一滴たりとも己の血を吸わせていない青年は酷薄に微笑んだ。
 そして青年は血が滴る髪を無造作に掻き上げ、その手を払う。男の足元に男が雇った者たちすべての血が交じり合ったあかが飛沫し、男の足を汚した。だが男は動かないし動けない。青年の有り様とその口調が全く一致していないことが、男の恐怖を掻き立てその足を地面に縫い付けていた。

「第一お前のやってることは端から矛盾してんだ。他人を介入させた時点でお前に『壱』の名を継ぐ資格はねーよ。俺とお前とじゃそもそも『格』ってヤツが違うんだからな。そんな奴に壱の名はもとよりもやらねぇしやれねーよ」

 それにしても、と青年は不機嫌さをまとって嘆息する。
 それだけで男は大きく肩を揺らし、視認できるほどその身体を震えさせ始めた。

「お前みたいな雑魚の所為でとの時間が割かれたと思うとまじ腹立つな。ここらで全部終わらせようと思ってたってのに、モトジメは現れねーし、まじ腹立つ。まっ、どの道お前には ―――」
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 虫の知らせ、という言葉がある。
 曖昧な感覚からくる不幸な出来事への予感を表すこの言葉は、多くの場合事態が起こる前ではなく後の状況で用いられる表現で、壱が嫌いな言葉の一つであった。
 だっていくら予感があったとしても、後になって気付いては何にもならない。後悔ばかりが押し寄せてくるだけだ。

(――― ……?)

 だから不意に過ぎったその不思議な感覚に、壱は混乱した。
 男との間合いを詰めようと動かしていた足を止め、男から一瞬気が逸れる。
 それは虫の知らせというより寧ろ、本能的な『何か』であった。強く彼女を思うあまり過ぎった勘違いである可能性が高く、けれども壱にはこれが勘違いではないという根拠のない自信があった。

「おい」

 すっと、急激にその温度を下げた壱の声に、男は喉を引き攣らせた。
 悲鳴にならずに消えた悲鳴を空気と共に呑み込み、一瞬呼吸が止まる。

「貴様、をどこにやった?」

 それまで飄々と取れる言動だった壱は一変、抑揚のない、しかし確かな怒りを湛えた声で男に問い掛けた。
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 焼けるような熱を伴う痛みは最初のうちだけだった。栓の役割を果たす太刀を貫いた腹部から引き抜けば、どくどくと流れ出す血液が一緒に体温まで連れ出てしまい、寒さに身体が震え出すのにそう時間は掛からなかった。
 しかし血を流し過ぎた所為で感覚が鈍って来ているのか徐々に震えは収まり、今の自分には腕を上げるのすら難しいどころか、視界に映る銀時の唇が動いているのはわかるのに何を言っているのかが聞き取れない。挙句徐々に、その視界すら利かなくなり始めていた。
 ――― 自分はここで死ぬのだと、自らが招いたこの結果には満足していた。
 自分の命と銀時たちの命を秤に掛けたとき、どちらの方がより価値のあるものかなんて考えるまでもなく決まっていたのだから。そもそも比較することが間違いであり、人である彼らと物である自分とでは立っている土台自体が違うのだ。
 は彼らを傷付けたくないと思い、そのためなら自らの命を差し出すことも惜しくないと思っている。だからこれでいい。ただ『壱』ではない者の言葉に従ってしまった自分に与えられた罰にしては、贅沢にも有意義な内容であるけれど。
20090616