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自分が一体何者であるかを、は知らない。『』という人間は壱に出逢ったことで生まれた存在であり、が『』となる以前のは世間で『死屍姫』と呼ばれていた、そうだ。その頃のは人であることを認められず、自我を持たない存在だったため記憶がほとんどなく、更にそれ以前となると赤子であったため当然ながら記憶などないが。 ではない。死屍姫でもない。本来あるはずだった自分も名前も年齢も、何も、は知らない。 には確固とした『自分』が存在していなかった。『』とは壱がくれた名と言葉 ――― 命令によって出来上がったものであり、それは到底『自分』と言い切れるものではないのだ。 己が何者であるかも知らない人間が『普通に』生きたいなどとは、考えればとんだお笑い草だった。その願いというのものものではなく、壱が言ったものである。にとって絶対である『壱』の願い ――― 命令であるから、もそうしようとしていただけであって。 自分で考え、自分が思うように行動し、その意思に従う。 壱が以前そう『』に言ったことを思い出し、はそっと目を伏せた。それはこれまでが壱から与えられた『命令』の中で最も難しい難題であった。 だってには、従うことがすべてのには、自分の意思に基づく行為は矛盾したものであるから。何よりは『自分』を知らないから。 (だけど、あの時の私は ―――) 171
天人の登場以来、急速な発展を遂げた江戸の町には、その発展から取り残された地区も少なくない。その多くは所謂貧困層が集まるスラムであり、そういった場所には開発の途中で出た廃材を投棄するゴミ山があちこちに点在していた。先の手紙により指定されたのはその中の一つ。科学薬品のにおいが空気に混じる場所だった。 悪臭に顔を顰めた壱は、黒衣の男をそのまま睨み付けた。 趣味の悪い仮面で目許を覆い、唯一覗いている口元は狂気に歪んでいる。その出で立ちには記憶の中に残る父の姿と重なるものがあり、壱の機嫌はますます降下した。 「……はどこだ?」 「案ずるな、アレは大切な金のなる木だ。無碍にはせぬ」 「トーゼンだ。アイツに掠り傷一つでも負わせてみろ、死ぬより辛い地獄を味わわせてやる」 「壱ともあろうものが、徒人に成り下がり私欲で一族を滅ぼしたばかりか、人形風情に心を奪われるとは実に滑稽だ」 「言っとくが最初に畜生に堕ちたのは先代の壱だ。同じく堕ちて恥を晒した貴様らに今更何を言われても痛くも痒くもないね。いつまでも古い掟に縛られ、今も戦場を求めて当て所なく彷徨ってるそっちの方が余程滑稽だよ」 壱は鼻で嗤った。自らもまた徒人に堕ちた者が、その自覚を持っていないことが愉快でならない。 「まっ、そんな能書はどうでもいい。――― 来いよ。いい加減お前らのストーカー行為にはうんざりしてたんだ」 172
玄関の扉が閉じられたのと同時に、玄関の硝子に映っていた人影は一瞬で姿を消した。思えばが万事屋へ来た当初も、彼女は壱と同じくああやって姿を消して買い物に出掛けていたものだ。そんな刹那の回顧の後、銀時は壱の後を追うように玄関に向かった。 靴を履き終えて立ち上がったところで新八の声が背中に掛かる。 「銀さん、行くんですか?」 「ったりめーだ。それとも新八、オメーはちゃんのことが心配じゃねーのか?」 「誰もそんなこと言ってません! 僕が言いたいのは、行くのは銀さんだけじゃなくて僕も一緒に行くってことです!!」 「私もアル!! あんなどこの馬の骨かもわからない奴に私のを任せてはおけないネ!」 「いやあの神楽ちゃん? どこの馬の骨って、あの人一応さんのご家族だから……」 勝手にを所有物扱いしている神楽に新八は苦笑して突っ込みを入れながらも、壱の立場を「一応」などと言っている辺り彼もまた神楽と似たり寄ったりの気持ちであることを物語っていた。なかなかに酷い。 そんな万事屋三人の様子に、土方は紫煙を乗せたため息をつき、同じく玄関に向かった。沖田も続く。 「おら退け、オメーらがいたら俺が靴履けねーだろ」 「事情はよくわかりやせんが、今度の件には攘夷志士が絡んでる可能性もありやすからねィ。俺たちも同行させてもらいやすぜ」 「あの女の事情なんざ知ったこっちゃねぇが、市民を守るのが俺たち警察の仕事だからな」 言い訳臭いですよ、と。新八はやはり突っ込んだ。 173
壱と名乗る青年が一体何を考えているのか、銀時には全く理解ができない。ただをとても大切に、特別に想っていることだけはわかる。多少歪な形ではあるが。しかしその想いと彼の行動はどうにも結び付かない。を傷付ける言動すらも、彼は彼女を想う一つの愛の形だと言うのだ。 ――― を手に入れたいのだと、壱は言った。 それは肉体的なものかはたまた精神的なものか、或いは両方の意味合いなのか。どうあれ銀時から見て、とても憎たらしいことではあるがの心は既に壱に向いている。だが壱は、は誰の物でもないと言う。物質的な意味だけではなく。 「壱からの命令がない限り、私は銀時の物です」 ふと、銀時は以前が言っていた言葉を思い出す。銀時の言葉をすべて『命令』と認識していた彼女は確かにそう言っていた。彼女が所有者と認識している者の言葉は、たとえそれがどんなに些細なことでもにとっては『命令』になるのだと、初めて知ったときのことだ。 そこで銀時は気付いた。 壱の代理である銀時の言葉がそうだったということは、本来の所有権というものを持っている壱の言葉もまた、同じなのではないだろうか。自分の声はに届かないのだと壱は言っていた。それがこのことを意味しているのだとしたら、理解し難かった壱の言動が、今なら銀時にも理解することができた。 174
放たれる暗器を一つ残らず弾き返しながら、背中を狙って斬り掛かって来る敵を確実に、一撃で仕留めていく。最初の内は浴びないように気をつけていた返り血は、一分と経たずにどうでもよくなった。今更汚れること嫌っても、生まれたときからこの手は血に濡れているのだから。気にすることが馬鹿らしく、愚かに思えたのだ。 ただを取り戻した時、彼女をすぐには抱き締められないことが悔やまれる。 20090604
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