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 壱の視線がふと玄関に繋がる居間の戸の方に向き、遅れて気付いた銀時もそちらに目を向けた。
 慌しい足音が聞こえた直後に玄関が乱暴に開かれる音がし、足音はそのまま、今度は居間の戸が開かれ。

「大変です!!」

 息を乱して駆け込んできた新八はそう叫びながらも力尽きて膝を折った。新八よりはマシだがこちらも息を乱している神楽は何度もの名を口にしながら、それ以上言葉が続かずにいる。
 そんな二人の動揺振りに銀時は顔を顰め、息を乱したまま必死に言葉を紡ごうとする新八に落ち着くよう声を掛けた。だが新八はそんな余裕などないというように唇を開いては閉じることをくり返し、だが息が乱れている所為で上手く言葉が出せない自分にじれったそうにして、拳にした左手を目の前にやって来た銀時に向かい突き出した。

「こ、これっ……さんの、ですよ、ね……?」
「鈴?」
「ちょっと見せてもらえるか?」

 新八が握り締めていた拳から落とされた見覚えのあるそれを受け取り、銀時は眉間に皺を寄せる。
 横から顔を出した壱に手渡すと彼は汚れた表面を親指で撫で、首肯した。掌の上で転がった鈴はリンと小さく音を響かせる。

「ああ、のだ。まだ新しい血のにおいがするな」

 鈴を鼻に近付けた壱は表情を変えず、その言葉は淡々としていた。
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「そいつが落ちてたのは埠頭の倉庫街だ。詰まれてたコンテナの影でウチの監察が見つけた」
「現場は一面血の海で、いくつか死体が転がってたそうですぜィ」

 血のにおいとは一体どういうことなのか。どうしてそんなことがわかるのかという疑問が湧くより先に、壱に問い詰めようとした身体が遅れて現れた二人の男の登場によって遮られる。
 気安い態度で銀時に軽く挨拶をする沖田を土方は一睨みし、紫煙を吐き出した。

「真選組副長の土方十四郎に一番隊隊長の沖田総悟か。の奴、俺がいない間に男を引っ掛けられるまでになったとはな」
「……オメーがあいつの保護者か?」
「便宜上はな。まっ、俺自身はそんな安っぽい地位に甘んじてるつもりはないけど」

 土方の問いに肩を竦めて答えた壱はしっかし、と酷くおかしそうに笑った。

「俺のところから逃げ出したのに合流地点に向かうなんざ、矛盾してるだろーが。フツー途中で気付くだろ ――― いや、気付かないか。だもんな。まあ前と比べると大分成長してるし、今のところはヨシとするか」
「……おい、何暢気に笑ってやがるちゃんが心配じゃねーのか!?」

 緊張感がまるでない壱の態度に銀時は拳を握った。つい先程と同じ空気を感じ取った新八が慌てて、ようやく落ち着いた呼吸で銀時を呼ぶが、銀時は位置を睨み続ける。確かにいつまた殴り掛かってもおかしくない雰囲気だ。
 対する壱はのように無感情に銀時を一瞥し、鼻で嗤った。

「ンな訳ねーだろ。俺がどれだけのことを想ってるか、今の今まで話してたのをもう忘れたのかよ」
「だったら」
「急いては事を仕損じるつーだろ? それに心配しなくとも、は無事だよ。奴がを殺すことは在り得ない」

 その逆は十二分に在り得るけどな。言って、壱はの袂を飾っていた鈴の一つを懐に仕舞った。
 壱はそれ以上の用はないとでも言うように視線を銀時外し、土方と沖田に移した。


「恐らくお宅の監察がの行方を捜してくれてるんだろうけど、その必要はねーよ。どうせ向こうから接触がある」
「何か心当たりがあんのか?」
「嫌と言うほどね」
「じゃあが無事だという確証はどこからくるんでさァ?」
「あっちの目的がを手に入れることだからさ。殺しちまったら元も子もない。まあ俺のことは容赦なく殺すだろうけど」

 肩を竦めて何でもないことのように言う壱だが、聞いている方としてはそうも言っていられない内容の発言だ。
 土方の眉間には更に皺が寄り、沖田は無意識に腰の刀を撫でる。

「どういうことだ?」
「言葉通りだよ。邪魔者は殺しちまうのが一番手っ取り早いだろ?」

 さも当然のことのように言う壱は、銀時たちとはまるで別の価値観が支配する別世界を生きてきたとしか思えないような、あっさりとした口調だった。それがこの場にいる者たち全員の背筋をぞっとさせる。
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 ついっと、壱は視線を、銀時のデスクの後ろにある窓へと走らせた。そしてほんの少し、身体の位置をずらす。
 ――― 風が頬を掠め、タンッ、という音と共に背後の壁に一本の矢が刺さった。
 窓の障子を突き破って突然打ち込まれたそれに壱を除いた一同は息を呑み、銀時と土方、沖田の三人はすぐさま身を伏せた。事態の把握が一人遅れた新八は神楽に背中を蹴られ痛々しい音を立てて床と接吻を交わす。顔面をただぶつけただけでも十分痛いのに新八の場合眼鏡を掛けているから更に痛いだろう。悶絶する声がそれを物語っている。

「もう逃げてる。警戒するだけ無駄だし、追跡は不可能だよ」
「チッ!」

 土方の舌打ちを横目に壱は壁から矢を引き抜き、その骨に結ばれた手紙を外した。
 矢文とは古風だが随分粋なことをしてくれる。文字を綴る赤いインクからは乾いていても消えない鉄錆のにおいがし、壱は顔を顰め、手紙の内容を読んで更に眉間に皺を寄せた。予想はしていたが実際こうして現実を目の当たりにすると腹の辺りがムカムカしてくるから不思議だ。
 横から覗き込もうとしている沖田に壱は手紙を押し付けた。

「これは……血ですかィ?」
「ああ、多分お宅らがさっき言ってた血の海から拝借したんだろ」
「おい、どこへ行く?」
「手紙に書いてある通り、ご招待に預かったんだから行かない手はないだろ? を返してもらわなきゃだし」
「――― それはちゃんがオメーの『物』だからか?」

 銀時の問いに壱はきょとんと瞬き、苦笑した。
 緩く首を振るその様子は寂しげで、悲しげで、痛々しくて。これまでの不遜とも取れた態度の面影はない。

「アイツは誰の『物』でもねーよ。今のままじゃ誰も『』を手に入れることはできない。だからこそ、たとえどんなに汚いやり方でも、アイツが苦しむことになったとしても。俺はアイツが欲しくて、手に入れたくて堪らないんだ」
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 。それは少年が生まれた時、文字通り母から授かった名だった。
 その名はいずれ少年が一族の長となるとき葬られるはずの名であった。長たる証の名を継ぐとは、それ以前の自分を捨てるということと、ある意味では同義であったからだ。
 だから少年にとって、たとえその名が母から授かった名であろうとも、その名に大した執着はなかった。
 の名は少年にとっていわば記号にしか過ぎなかったのだ。自分が自分であるという証明に使われるもの。それ以上でもそれ以下でもない、ただの『それ』ということを表すに過ぎない。
 ところがある瞬間、少年にとって『』の名は単なる記号以上の意味と価値を持った。


――― そういえば、お前の名は?

 少女は少年をただ見つめるだけで答えようとはしなかった。
 言葉を発することを禁じられているのかと思い喋っても構わないと許可しても、少女は沈黙したままだった。

――― ……まさか、ないのか?

 沈黙は肯定の証とよく言うが、黙したままの少女の反応を見て少年は反吐が出る思いだった。少女に対してではない。少女をこうさせた者に対してだ。人の形をしているだけだとか兵器だとか、所詮は『物』に過ぎない存在に、それを個として認める記号は必要ないということだろう。
 ならばまずは自分が、少女を『個』として認めよう。だって少女は今少年の目の前にいるのだ。息をし、温もりを有し、その硝子玉に少年を映している。

――― 。それが今この瞬間から、お前の名になる。お前にやるよ。

 そして静かに硝子玉に差し込んだ光に、少年は息を呑んだ。
 閉ざされていた唇が震え、開き、掠れたその声を初めて耳にする。拙く呼ばれたのは既に自分を証明するものではない記号であるのに。心が、魂が震えた。そして更に、少年は乞うように、少女に新たな自身の名を教えた。
 衝動的に伸ばした腕の中に抱き締めた熱を感じながら、少年はどうして、自分と少女が全く別の存在としてこの世に存在しているのだろうと思った。だって同じ一つの存在であったのなら、こんな激しい劣情を自分は知らず、共有することができたのに。
20090526