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 玄関を開け、ただいまを言うより一瞬早く中から聞こえたのは、強い打撃音と何かが倒れる音だった。
 と神楽は顔を見合わせ、買った物を玄関先に置いたまま、何事かと音がした居間に向かう。
 そして居間と廊下を隔てる引き戸を開けた目の前に飛び込んできたのは、後ろから羽交い絞めにして銀時を必死に止める新八と、酷く怒りに震えた顔の銀時。そして頬に殴られた痕をつくって床に座り込む白い着物の青年だった。

「壱!!?」

 青年の姿を認めた瞬間、は神楽を押し退けて彼に駆け寄った。
 頬の痕が殴られたことでできたもので、殴ったのが銀時であることは一目瞭然だった。わかった瞬間は立ち上がり、一体どこから取り出したのか ――― 一振りの太刀の切っ先を銀時の鼻に突き付けていた。表情を失った顔からはしかし、明白な怒りが感じられた。
 銀時に向かって一心に注がれるそれは、かつてないほど顕著になったの感情だった。銀時は息を呑み、新八の拘束に抵抗する動きを止める。

「止めろ、。武器を納めろ」
「――― 御意」

 イテテ、と顔を引き攣らせる壱がそんなを止めた。まさに鶴の一声。
 反対の手に持っていた鞘に刀身を納めたはしかし、その殺気までは収めようとはしなかった。するとため息をした壱がもう一度、の名前を呼ぶ。

「だからっ! そーゆーのは止めろって散々言っただろ。まあ、仕方ねーのかもしんねーけどさ……」
「……御意」
「あーっ! もう今はいいや。それより

 後ろにいる壱に腕を掴まれ、力強く引き寄せられる。そしての身体は壱の腕の中に収まった。久し振りにぎゅっと、絞め殺さんばかりの力で後ろから抱き竦められ、の身体は硬直する。首筋に埋められた壱の呼吸が肌を撫で、くすぐったい。
 正面にいる銀時たちが、壱のこの突然の行動に呆然とした顔で凝視してくる。

 それがすごく、落ち着かないと。は思った。
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 状況を全く飲み込めていない神楽に壱が改めて自己紹介すると、彼女はにしがみ付いてとの別れを拒んだ。
 それを宥めようとする新八も辛そうで、腕を組んだ銀時は何か考えているのか怒っているのか、難しい顔をして、腫れた頬に氷を当てる壱を半ば睨み付けていた。そしては俯き、膝の上で握った拳をじっと見つめて微動だにしない。

「まあお宅らがどう足掻いたって、は連れて行く。んで、これが報酬だ」

 そう言って、壱は持参した風呂敷をテーブルに乗せると口を解いた。――― 銀時たちは息を呑む。風呂敷の中に包まれていたのは、彼らが見たことのない札束の山だったのだ。

「遊んで暮らせるってほどの金額じゃないがこれだけありゃ十分だろ。ってなワケで、依頼終了。――― 行くぞ、

 一方的に話を終わらせようとする壱はそう言っての腕を掴むと立ち上がった ――― が、彼の手は振り払われた。驚いた壱が振り返って見たものは、振り払われた壱以上に驚愕しているの姿だった。
 は唇を震わせ、さっと蒼白する。次の瞬間、部屋を飛び出した。その後を咄嗟に、神楽と新八が追い掛ける。残された壱は開け放たれたままの戸を見つめ、そしてその横顔を銀時が見つめた。


「はは、はははっ、はははは!!」

 突然笑い出した壱に、銀時はぎょっとした。
 おかしなことがあったわけでもないのに止まらない壱の笑い声はだがすぐに消沈し、壱は再びソファーに腰を下ろす。背凭れに頭を乗せて天井を見つめ、「あー」と意味なく漏らす声にしかし、手を振り払われたことに対する悲愴感はない。

「……追わねーのか?」
「ああ、これでいいんだ。俺が行ったところでに俺の声は届かないからな。俺以外の誰かの、を想ってくれてる奴が行った方が確実だし、それでいいんだ。そういうアンタこそ追わないのか?」
「新八と神楽が行ったなら十分だろ。それにオメーは俺に話があるんだろ? 今なら聞いてやらないこともねーよ」
「流石、引き止める手間が省けて助かる。わざわざ殴られた甲斐があるってもんだ」

 顔を顰めた銀時に、壱は頬の傷を感じさせずにケタケタと笑う。
 そしてふと、その笑みを自嘲に変えた。

「面白くもなんともねー昔話だけど聞いてくれるか? 白夜叉サン」
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 どこかに行く宛てがあったわけではない。ただあそこに、壱の前に、いられないと思った。
 彼の言葉に従うことがのすべてだった。彼の言葉はにとって天の言葉であり絶対で、それがどんな無茶でたとえこの命を懸けるような危険なものだとしても従う、従わなければならないものだった。

 ――― なのに、振り払った。他でもない彼の手を。

 私を『私』にしてくれた、彼の手を。


(私は他でもない私の手で、『私』を否定した ――― !)
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 ただ走ることに専念していたは、曲がり角の向こうからやってきた人物に気付かなかった。
 それは場合によってはドラマのワンシーンのような、運命で結ばれた男女の出逢いのシーンみたいなものだったのかもしれない。しかし現実はそんなロマンチックなものではない。

 不意の衝撃に転倒を免れないと瞬時に判断したは、受身を取るために身構えた。――― しかし、の身体は正面から伸ばされた衝突した相手の手に掴まれて事無きを得た。

「おい、大丈夫 ――― って、お前は……」
「とし、ろ、う……?」

 がぶつかったのは土方だった。まさか会うとは思っていなかった人物との遭遇には驚き、対する土方は眉を顰めた。そして開きかけた口を閉ざして何故かぎょっとする。激しく狼狽する土方の動揺振りには驚いて首を傾げる。

「十四郎……?」
「っ、何で俺の名前 ――― いや、今はそんなことよりお前、何泣いて」
「土方死ねェェェェ!!!」
「ヌオオォォオオォオ!!?」

 背後から振り下ろされた刀を、土方はぎりぎりでかわした。その拍子に支えられていた手を放されたはふらついたが無事に体勢を整え、そして今し方まで土方がいた場所で、抜き身の刀を肩に担ぐ沖田の姿に絶句する。
 今の一太刀は完全に、土方を殺すつもりの一撃だった。信じられない。

「ったく、土方のヤロー油断も隙もねぇでさァ。大丈夫でしたかィ、?」
「は、はい」
「嘘はいけねェですぜ。土方のクソ野郎にぶつかったせいでマヨ臭さがうつったんでしょう? なら泣いちまうのも当然だ」
「総悟ォォォ!!? テメー俺を殺す気か!? つーか俺はマヨ臭くねーしマヨを馬鹿にすんな!!」
「土方さんこそ馬鹿言っちゃいけねェですぜ。俺が馬鹿にしてるのは土方さんだけでさァ」
「尚のこと悪いわァァァ!!」

 公道のど真ん中で真剣を抜いてやり合う二人には後退し、そしてはっとする。振り返ったのは今自分が駆けて来た道の先だ。雑踏に紛れて、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
 は土方と沖田の脇を通り抜けて、更に駆け出した。
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 男は今日のこの瞬間を長く待ち続けていた。
 都合よく自ら人気から遠ざかってくれた標的は倉庫街のコンテナの間で立ち止まり、息を乱している。こちらの気付く様子が見られないところに衰えたのかと男は一瞬考えたが、それは杞憂だった。

「いい加減、姿を現せ」

 抑揚のない声は凛と告げ、その眼差しは男が身を潜める闇を寸分の狂いもなく射抜く。
 刹那、襲い掛かった殺気に男は息を呑み、そして言いようのない高揚感に全身を巡る血液が沸騰する錯覚を覚えた。これこそまさに、男が待ち続けそして求めていたものだった。男は音もなく標的の前に姿を現す。

「……何者だ」

 その問いに、男は顔半分を覆う仮面から唯一覗いている口許に三日月を描いた。
 そして告げるのだ。長年追い求めてきた至高を、今再び手にするために。彼女に与えられた、至上の称号 ――― その真名を。
20090518