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油断なく構えながらも、は必死に思考を巡らせていた。女物と思われる派手な着物を着崩す隻眼の男を、記憶から掘り返そうと試みる。しかし過ごしてきた特殊さ故にが知る人間はあまりに少なく、万事屋で過ごすようになって以降厚みを増した人物図鑑にも、男の存在は載っていなかった。 知らない男だ。それは間違いなく断言できる。けれども男はを知っている。 男が口にした響きを知る者はいまやゼロに等しいというのに。何故という疑問ばかりが湧き上がり、同時に太刀を握る手に力がこもった。だが男が誰であろうとそんなことは問題ではない。男がその響きを知っていることが問題なのだ。 だから断たなければならない。はそう教えられてきた。だけど動けなかった。負けるとは思わないし絶対に勝つ自信があるのに、警戒するだけで精一杯だった。 「――― 『』!!」 そして自分はどこまでも、忠実に生きるしかないのだ。 112
リィン、といつかのように背後で上がった清らかな鈴の音に、銀時は弾かれたように振り返った。この港が顔も知らない依頼人からを頼まれた場所だと気付いて、いつかと同じく合言葉なる『』の名前を口にしたのだが。は銀時の前に現れてくれた。 しかし振り返った銀時と目が合った瞬間、は大きく肩を揺らして二歩後退った。 あ、と音もなく動いた唇が、この登場がの意思に沿うものでなかったことを表していた。自分自身を銀時の『物』と表したことといい、所有権とやらを持つ銀時に従ったにしか過ぎないのだろう。にとって銀時はそういう存在なのだ。 「ちゃん ――― すんませんでしたァァァ!!!」 「っ、…………は……?」 腰を九十度に折っていきなり謝罪を口にした銀時に、は意表を突かれた声を出した。身体を起こして銀時がを見るとまさにその通り、はぽかんとしており、銀時が今までに見た表情の中で最も無防備な姿をしていた。 「記憶を失くしていたとはいえ、生意気なこと言ってほんっとうにすみませんでした!!」 「え、あ……、どうして銀時が謝る?」 「いやだって、その、本当に「何様?」ってこと言っちゃったし、依頼だって放り出そうとしたし、ねェ?」 「何様も何も、私は銀時の『物』だから偉いのは当然。所有者の命令に従うのは『物』として当然だから」 の返しに、それまで申し訳なさそうにしていた銀時は顔を顰めた。「あー」の意味のない音を不機嫌そうに漏らして頭を掻く。そういえば当たり前のように会話をしているが、どうやら銀時は記憶が戻ったらしい。 よかった、とは思った。 「それ、その俺の物だとが所有権とか所有者とか、ちゃんは本気で言ってる?」 「偽る理由がありません」 「そう……。ちなみに俺あの時放棄するとか言っちゃったけど、まだその権利って有効?」 「壱からの命令がない限り、私は銀時の物です」 「いち……?」 聞き覚えのない名前に銀時は首を傾げたがは答えなかった。 「……まあ、よくわかんないけどわかった。――― だけど残念ながら、銀さんはちゃんの話に納得ができません」 「納得……? それは必要なことですか?」 「ああ、すっげー必要だ。第一銀さんは今まで一度も、ちゃんをちゃんが言うように捉えたことがありません。ちゃんが命令って言ってるのだって、銀さんは一度もそんなことをしたことがありません」 「命令ではない? では何ですか?」 至極不思議そうな顔をしたに、銀時はふっと笑う。 「――― お願い。乃至はおねだり」 113
「」苦しげな声に名前を呼ばれたのと、後ろから伸びた腕に引き寄せられて抱き竦められたのはほぼ同時だった。 不意打ちの行為に水気を拭き取っている途中だった皿が手の中から滑り落ち、床に落ちて割れた。もう何枚になる被害だろう。 彼は時々、猫のような気紛れさでを抱き締める。 一貫しているのは腕に込められる締め殺さんばかりの力だけで、数分で解放されることがあれば一日中抱き締められ続けることもある。いきなり腕を引かれたり、手招きされて近付いたらされたり、夜の寝床で覆い被さられたこともあった。 どうして彼がこのような行為に及ぶのか、にはわからない。 しかし抵抗しようとは思わないから、は彼の気が済むまで甘んじるのが常だった。 「、こっち向いて」 「はい」 「……」 「はい」 腕の力が一旦緩み、は望まれた通り振り返る。 元から密着していた状況だったため彼との距離は存外近く、目線の高さには彼の顎があり、二度目の呼び掛けでは顔を上げて彼と目を合わせた。 「はさ、俺にこうやって触れられるの、嫌か?」 「不思議には思います」 「ははっ、即答か」 「私が以前、抱き締める理由を訊ねた時、あなたは抱き締めたいから抱き締めるのだと答えました。ですが私には、その『抱き締めたい』と思う気持ちがわかりません」 そっか、と相槌した彼は苦く笑っていた。くすぐるようにの頬を撫で、額を合わせる。そして間近で今度は目を合わせた。 「じゃあさ、嫌じゃないってことか?」 「嫌がる理由がありません」 「ふぅん? じゃあそれは、俺が『壱』を継ぐ者だから嫌がらないってことか?」 その質問には眉を顰める。 「……意味がわかりません」 「ああ、だろうな。でも今はそれでいいんだ。いつかが自分の力で理解した時、知ってもらえればそれでさ」 「教えてはくれないのですか?」 「教えてはあげないのでーす」 茶化すように彼は笑い、それにさ、と言葉を続けた。 「俺とお前は『家族』なんだ。そしてお前には『』という名前がある。……だからお前は、これからは自分の頭で考えて、他人の言葉じゃなく自分の意思に従って行動するんだ」 「…………それは、命令ですか?」 が訊ねると、彼は寂しげに笑った。 頬に触れていた手が頭の後ろに回り、もう片方の手は腰に回されて固定される。そして先程よりずっと強く、隙間なく密着する形では抱き締められた。 「ばーか。こんなのはな、馬鹿な男の独り善がりで浅ましい、願望にしか過ぎないんだよ」 20090312
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