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魚の姿でも見つけたのか、海鳥は海面の一箇所を中心に旋回をくり返し、鳴いている。人気がない港の倉庫街で、コンテナの上に腰を下ろすはその様子をぼんやり見つめていた。 そういえばいつだったか、あの人が「鳥になりたい」と呟いていたのを思い出す。当時は彼の気持ちが全く理解できなかっただったが、今なら何となくわかる気がする。だが別に鳥でなくとも、自分以外の『何か』になりたいと、は思った。 けれどもはすぐに首を振って、その馬鹿げた想いを頭から弾き出す。 自分ではない何かになるということは、『』の名を捨てるということだ。それだけはできない。だってこの名前には言葉では到底表現することができない様々なものが詰まっているのだ。簡単に捨てられるものはないし、捨てていいものでもない。 (どうすれば、いい……?) にはわからなかった。銀時に権利を放棄すると言われてからずっと、頭の中が真っ白だ。 銀時の発言はつまり、の存在の否定だった。銀時にはそのつもりがなくともにはそういう意味だ。イコールで結ばれている。たとえ彼が代理だとしてもは銀時の『物』だった。しかし「いらない」と言われてしまった。こんなことは初めてだから、これからどうすればいいのかがにはさっぱりわからない。教えられていない。 一先ず今はいない本来の己の所有者に従い、彼が指定した待ち合わせ場所に来てみたはいいが。 合言葉は聞こえない。 108
「けーるぞ」そう言って、どうにかこうにか記憶を取り戻した銀時は歩き出した。 「ちょっと待てェェェェ!!!」 「ぐふほっ!!?」 ――― が、後ろから伸びてきた新八と神楽に肩を掴まれて引き戻され、勢い余ってすっ転んだ挙句後頭部を地面に強打する。 「ちょっ、君たちいきなり何するのォォォ!!? 銀さんまたポーンッて記憶飛びそうだったんですけどポーンッて!!!」 「そんなことよりさんです!! さんは!? 一緒じゃないんですか!!?」 「そんなことっておまっ ――― は? ちゃん? そういやちゃん一緒じゃないのか?」 「銀ちゃんが万事屋解散するって出て行った後追って消えたアルよ!! 吐け天パ! をどこに隠したアル!!!」 「いでででででっ!!! そんなの俺だって ―――」 知らない、と言い掛けた銀時の脳裏に、記憶を失っていた間の出来事が過ぎった。 そういえば逃げるように万事屋の前から去ったものの、どこまでも後をついてくるに自分はとんでもないことを言ったのではなかっただろうか。立ち尽くしていたを放って駆け出してしまい、その後のがどうしたのか知らないが、とんでもないことを言った自覚はある。今になって沸々と湧いてきた。 倒れた銀時の上に乗り、テレビで仕入れたのかプロレス技を掛けて来る神楽を振り落として立ち上がった銀時は駆け出した。 がいく場所に心当たりなどない。しかしすぐにでも見つけなければとんでもないことになるような、そんな気がした。 109
それは懐かしい香りを伴う、雷に打たれたかのような衝撃だった。弾かれたように飛び退いて身構えたは、どこからともなく取り出した太刀を隙なく構えると、左目を包帯で覆う隻眼の男を睨み付けた。死装束の如く白い着物の袂に取り付けられている鈴が清らかな音色を響かせる。 男は帯刀していたが、幕府の人間には到底見えない。攘夷志士だろう。 しかし男はどう見てもただの攘夷志士ではない、ひとたび牙を剥けば喉元に喰らい付いて狂気と化す獰猛な獣だった。死を恐れるどころか、死線が迫れば迫るほど己の生き甲斐を感じるような危険な人間だと、は第六感が告げている。 男はを見てニタリと嗤った。 その時背筋を走った衝撃に、の心は震え上がった。――― 恐怖ではなく、この上ない歓喜に、だ。 思わず切っ先がぶれたに、男は何かを読み取ったのか酷く満足そうに嗤う。 「どうやらお前の獣は、鋭い牙をまだ隠し持ってるらしいな」 「――― え……?」 「惚けなくていい。お前だってわかってるんだろう? なあ、 」 110
何かと留守番を任せてばかりいたが出掛ける場所など、スーパー以外に銀時には思い付かなかった。しかしそんなところは新八も神楽も知っているから、もう既に散々探しただろう。だから手当たり次第に町中を走り回るしか結局方法はなくて、だけど何の成果も挙げられなくて。流れる汗を乱暴に拭った銀時は舌打ちした。 思えば銀時たちがと過ごした時間は長いようで短くて、彼女について銀時が知ることはあまりに少なかった。 それはに興味がなかったというより、が何者であろうと、銀時には然したる問題ではなかったからだ。 いつだったか桂から受けた指摘の通り、は只者ではない。そんなことは言われるまでもなくわかっていたが、その時には既には銀時にとって、背負い込んだものの一つであり、守りたいと思うものの一つだった。そしてこの想いにの正体や素性は関係なく、だから銀時はが何者かなんて気にしていなかった。だから訊かなかった。 それなのに、は所有権だとか『物』だとか、銀時には寝耳に水なことばかり告げたのである。記憶を失っていたこともあり、それらはあまりに衝撃的な事実であった。 確かに銀時にとって、は顔を知らない依頼主から預かった大事な、ある意味では品物かもしれない。しかし彼女は人間だ。断じて『物』ではないし、銀時は一度もをそのような目で見たことがなかった。 だって彼女は生きているのだ。言葉を話し、意思の疎通ができる。素っ気ないところが多いがよく気が利いて、料理は美味しいけれど味覚に難があって、掃除が好きで意外に無知で、何かと騒ぐ自分たちを見ると困ったように眉尻を下げて首を傾げ、けれども小さく笑ってくれる。ただの一人の『女の子』なのだ。 (あー、くそっ! あと他に行ってない場所は ―――) 頭上に一瞬差した影に、銀時はふと顔を上げた。海鳥が数羽頭上を通り過ぎていったところだった。 風には潮のにおいが混じり、どうやらあちこち駆け回るうちにいつの間にか海岸の近くまで来ていたらしい。しかし海が近いと言ってもここから海水浴場までは遠く、あるのは貨物船用の港ぐらいなものだ。そのため人にしても車にしても交通量は少なく、人気がまるでない。 あ、と銀時はあることに気が付いた。 20090310
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