少なくとも悪いもんは感じひんけど、このまま放置するわけにもいかんし……。
 どうしたもんかと扱いに困っとると、音も気配もなく突然、ぽんっと軽く背中を叩かれた。
 不意打ちを受け、比喩やなくほんまに飛び上がって驚いた拍子に、抱えとった本日の戦利品が床に散らばった。せやけど拾うゆとりもなく、弾かれたように背後を振り返る。

「驚かせないようにしたんだけど、無駄だったみたいだね」
さん!!?」

 俺からは知覚できへんのに加え、千歳への衝撃もあって完全に失念しとった救世主の登場に、思わず声が大きくなる。
 けどいくらここが俺らの教室の前とは言え、あのさんが自ら出て来るほど事態は深刻だったんか。そう焦った時「俺が呼んで来たんや」いつの間にか千歳を解放しとった白石が、さんの更に背後から現れた。

「謙也に見えて俺には見えへんっちゅうことは、その猫ただの猫ちゃうんやろ?」
「あ、ああ。けど良い感じも悪い感じもせんから俺にはようわからんのやけど、さんには……」

 白石に答えながらさんの意見を伺おう思たけど、そん時には既に、さんはさっきの白石バリの素早さで千歳の背後に回り、更には千歳に屈むよう注文を出しとった。
 出席日数が少ない千歳でも、さんのことを知っとるのか知らんのか。昼休みの廊下やっちゅーのに、さんが登場した途端人気が消えて静まり返った中、興味深そうにさんの動向を観察しとる。
 そんな光景を更に俺が観察しとると、さんは屈んだことで低い位置に来た千歳の肩に、首根っこを掴んだ猫を無造作に乗せよった。……え?

 千歳の背中に張り付いとった猫は、口が裂けとるわけでも鋭い牙が生えとるわけでもなく、尻尾が二本ある以外は普通の猫と何ら変わらんように見えた。
 けど俺らと同様に一体何が起こったのか頭が追い付かず、きょとんとしとる顔はやけに人間臭い。やっぱり普通の猫とちゃうわ。

 こんな場所でさんが自ら介入したっちゅーことは、二次被害の心配はいらんのやとは思う。
 せやけど最早反射になっとる警戒心から次に何が起こるんかと身構えると、我に返った猫は俺には聞こえへん“声”で鳴き、千歳に頬擦りしてもう一鳴き。そしてその身軽さで地面に飛び降りると、足早に立ち去ってしもた。
 遠ざかる背中を惜しんで「あっ」伸ばされた千歳の手を、さんが透かさず叩き落とす。

「今度からはどんなに弱っている野良がいたとしても、絶対に情けを掛けないこと。特に君は獣の類いに好まれやすい」
「えっ?」
「幸いにもあの猫は珍しく善意に恵まれ、自らもそうなることができたものだけど、猫又に限らず獣である彼らは本来、人の血肉を好む獰猛なもの。少しでも隙を見せれば付け込まれ、鮮度を保つため生きながらに喰われることになる。――― 尤も、君が死の激痛すら快感とするマゾヒストか、自殺願望があるというのなら、わたしも止めはしないけど

 ……毎度のことながら、また恐ろしいことをさらっと言いよったぞ。
 これにはふわっふわの千歳も流石にぎょっとして固まっとる。いや、固まらざるを得ない内容なんやから当然や。
 そして更に当然、こういうさんに慣れてしもとる俺らのが先に我に返った。

「猫又って、漫画で見たことあるけど妖怪やなかったか?」
「わたしに言わせれば、人が言う幽霊も妖怪も同じ強い念の塊でしかないよ。だから生前の在り方が死後の在り方に反映される」
「つまり人のこと憎んだり妬んだりして死んだ奴は、死んでからも人を憎んだり妬んだりしとるっちゅうことか?」
「そんなところ。けれど人も動物も、一切の負の感情なく生を全うすることは難しい」
「まあ……せやな」

 さんの説明に思うところがあったんか、白石の相槌は鈍い。

「そんな中であの猫又は、生まれて間もなく捨てられた自分を拾い、育て、慈しみの果てに浄化してくれた家族への想いから生まれた。それはとても稀有なことで、その恩恵を無関係の者があやかることもまた稀有なこと」
「そんなら千歳は何で、その稀有な恩恵とやらに肖れたんや? あの猫も、千歳に頬擦りして行ってしもたけど、何がしたかったん?」
「御礼だよ。白さを保ち続けるより黒く染まる方がずっと容易い。そんな自分をすくい上げてくれた彼に、かつて自分をすくってくれた家族への想いを思い出し、白いままで在ることができたから」
「ナルホド」

 しかし猫又の恩返しならぬ御礼とか。先週千歳が登校した時、怒髪天を衝いた白石に連日の無断欠席の理由を、某アニメ映画のタイトルにもなっとる森の妖精を捜しに行ってたからっちゅー、冗談やなく本気の目で言い訳しとった千歳にお誂え向きの話やな。
 そういえば、さっきの猫又は黒猫やったから、千歳の肩にちょこんと乗った感じもそのアニメ映画会社の作品っぽかったな。魔女ちゃうし宅配業も営んどらんし、そもそも千歳は男やけど。
 ……ひょっとして、だから惜しんでたわけちゃうよな?

 そんなまさかと思って千歳を窺うと、何やキラキラした目でさんのこと見つめとるんやけど。
 え、何その今までにない反応。確かにさんの力って凄過ぎて、知ったところで驚きも何も通り越してしもて素直にビビったり恐れたりできひんけど、そんな反応するのもちゃうやろ。
 さんも、千歳のある意味で熱い眼差しに気付いて「な、何?」引き気味になっとる。

「幽霊や妖怪がいるっちゅうこつは、ひょっとして神様もいると?」
「いる、けど……」
「そ、そんなら、神様たちが骨休めに来る温泉宿は!?」

 おい。それ完全に神隠しの世界やないか。

「い、いや、流石にそんなところはないけど……」
「なら妖精は!? たとえば裏手の山に、森の妖精はいると!!?」
「ち、近しいものなら……」

 さんがそう答えた途端、千歳はさんの両肩をガシッと掴み、ぐいっと眼前に迫った。
 一方で、さっきから千歳の勢いに引きまくりのさんは退路を断たれ、頬を引き攣らせとる。視線を右往左往させて動揺を露わにしとる様は、知り合ってから今までの短くとも色濃い付き合いの中でも、見たことがあらへんもんやった。……恐ろしい奴や千歳。けど体格差があり過ぎて迫力に気圧されるのも事実や。

「今すぐ探しに行くたい!!」
「――― 行かんでええわ!!」

 傍で見とるこっちも引く勢いやったけど、あまりにアホなこと言いよる千歳に、反射的に右手が唸った。
 丁度ええとこに入ったんか小気味好い音が響いて、咄嗟に頭を押さえた千歳とお陰で解放されたさんの間に、白石が素早く身を滑り込ませて壁になる。……や、ついでに無防備な千歳の腹にドスッと一発入れとったわ。

「彼、その……大丈夫?」

 白石の陰から顔を覗かせるさんのその問いが、腹を押さえて蹲る千歳に係っとるのは確かやけど、腹へのダメージを懸念したもんやないことも確かやった。
 何て言おうか、言葉を躊躇ったのがええ証拠や。

「……擁護するわけじゃないけど、少し丁寧に接してあげた方がいいよ。一応病み上がりだから」
「病み上がり?」
「この間の大雨の日、さっきの猫又に傘を貸して全身濡れ鼠になって風邪引いて、今朝ようやく熱が下がったところなんだよ」

 この間の大雨って四日前の話やん。幸いこっちに来ることはあらへんかった台風に梅雨前線が刺激されて、あまりの豪雨に休校になった日や。
 ほな千歳はそれからずっと寝込んでたっちゅーことか?

「それから、もう一つ」

 さんがそう言うたタイミングでチャイムが鳴った。今度は何や。
 余韻まで消えてから、さんは改めて口を開く。

「……気付いてないみたいだけど、今の本鈴だから」
「え、ええっ!?」
「嘘やん!!」

 俺も白石も、昼飯まだなんやけど!
 しかも驚いた拍子に、廊下に散乱させたままやったパンを踏んでしもた……!
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