四時間目の終了を告げるチャイム。
 それは昼休みの開始と同時に、伸び盛りの俺らにとっては、午後の命運を決める戦いのゴングの音でもある。

 特に窓側の席の俺には、スタートのタイミングが何よりも重度になってくる。
 ダッシュなら陸上部にも負けへん自信があるっちゅーても、それは同じラインから同時にスタートを切った場合の話や。いくら俺でも、現役の専門職相手にラグのある勝負するのは厳しいし、ましてやコースは整備されたグラウンドやなく、リノリウムの床や。その上、目的を同じくするハードルよりも厄介な障害物が溢れとる。
 せやけど戦う前から怖じ気付いてはいられへん。やるからには全力でいかせてもらうで。

 ――― 斯くして、戦いの火蓋は切られた。


「よっしゃああああ!! 今日は俺の勝ちやで!」
「さ、最悪や。今日のメニュー、鬼マネの考えた地獄特訓やのに。俺だけ倍とか……死ぬ」
「あー……えっと、青汁いるか? 奢るで?」
「そんなんいるかボケエエエエッ!!」

 スパーン、と思い切り頭をど突かれた。何でや。
 そら自分は陸上部のエースで、座席は教室中央列の廊下寄りと俺より条件は整っとるのに、今日の戦いに負けてしもた。けど勝率はそっちのが高いし、俺の今日の勝利も二日振りのもんや。
 そういえば俺に負けた場合、現役選手としてのペナルティーにその日の練習メニューが倍になるっちゅー話は、前に聞いたことあるけど。今日は一段と死にそうな声で不吉なこと呟くから、素直に喜んでもいられず、こっちは気を遣ったっちゅーのに。何この仕打ち。優しさに返されたのが容赦なしのど突きとか。

 すると購買部の入っとるくいだおれビルを出たとこで、そいつはどこからともなく現れた噂のマネージャーに耳を引っ張られ、連れて行かれてしもた。
 地味に痛む頭をさすりながら、いい気味やと思ったのは一瞬。マネージャーがにこやかなのに対し、ガチで涙目になっとるそいつを見て、俺は心の中で静かに合掌した。

 そんなこんなあって普段より若干遅れて教室に戻ると、教室前の廊下に珍しい後ろ姿を見つけた。
 しかも背中に珍妙なもんをぶら下げて、左耳を白石に引っ張られとる。何やついさっきも見た光景やな。その所為でデカい身体を屈めて、実際は出入口の梁に額をよう強打するほど高い背が、今ばかりは小さく見える。
 そういえばここへの帰り道に擦れ違うた一組の連中が勝ち負けの話で騒いどったけど、成る程そういうことか。

 千歳千里。進級に合わせて転入して来たこの男は、デカい図体に見合わず悪い意味で身軽な、重度の放浪癖を持った奴やった。
 一度登校したら、次に来るのは早くて三日後。遅刻せずに登校したことは、少ない出席日数の中で一度たりともあらへんし、珍しく登校したとしてもちゃんと授業を受けるわけやなかったら、放課後まで学校にいてるとも限らん。ひいては部活に来ることも稀なんやけど、転入前の学校では“九州の二翼”と呼ばれたほどのテニスプレーヤーなんやから、人間ようわからん。
 兎に角、そういう妙な稀少性がついたことで、一組では千歳の出欠をネタにした賭けが行われとるて、小耳に挟んだことがある。つまりさっきの連中は、今日の賭けの結果に一喜一憂しとったっちゅーことや。

「おーい、そこのお二人さーん。廊下の真ん中に陣取って、通行の妨げになっとるでー」

 取り敢えず、周りの迷惑になっとるのを放っとくわけにもいかんから、廊下の両端に寄って通行せざるを得なくなっとる人らの気持ちを代弁させてもろた。
 すると白石が、っちゅーか、態勢的に千歳は振り返るにも振り返られへんのやけど、兎に角白石が反応した。
 白石はすぐさま周囲に視線を巡らせると申し訳なさそうな表情を浮かべ、丁度通り掛かった女子に「すまへんな」と声掛けしてから、廊下の端に寄った。
 その際、摘まれた耳を引っ張られて同じ廊下の端に連れて行かれた千歳の「イタタタタタッ!!」っちゅー悲鳴は、見聞きしとるこっちの耳まで痛なるほど悲痛で、その扱いは雑なもんやった。そら土日を挟んで七日振りの登校で、部活に至っては最後に顔を出ししてから今日で十日目になるんや。当然の扱いで、自業自得やろ。

 しかし通り掛かりのお嬢さん。そないな白石の姿を見せられて、どうして頬を染めてられるんすか。
 そら白石は外見も内面も完璧パーフェクトで文句なしに魅力的な人間で、そんな奴に声を掛けられたらしゃーないのかもしれんけど。そやかて状況的に解せん。

(嗚呼、でもだからこそ、白石は女の霊に取り憑かれやすいんやな)

 けど納得を抱いたのも確かや。
 普通やったら引くような場面でも、遥かに勝る白石の魅力に吸い寄せられてまうんやろ。現状がそれを物語っとる。
 そう考えると、通行人の迷惑云々よりも白石のために、今はこの場を離れた方がよさそうやな。

「……ここより中に入らへん? 白石はもう飯食ったんか?」
「いや、まだや。昼休みなってすぐ、このアホが登校してきたんでなァ?」
「イダッ! 白石、もう少し優し……いや、何でもなか」
「宜しい。ほな一先ず昼飯にして、説教はそれからや」

 呆れた。こいつは自分が置かれとる状況をわかっとらんのか。
 俺の提案に異のない白石は場所を移すべく、白石の鋭い一瞥に言葉を飲み込んだ千歳を引き連れて歩き出す。そうでもせな千歳のことや、また行方を眩ますのは目に見えとるから賢明な判断やと思う。
 せやけどその前に、せなアカンことがある。千歳の長身に隠れて、恐らく白石は気付いとらんのやろ。

「ちょい待った。教室入る前に、千歳の背中に張り付いとる猫を外に出して来なアカンやろ」
「え、ねこ?」

 家で飼っとるだけあって好きなんやろ。白石の動きは素早かった。
 俺が最後まで言い終わった時には既に千歳の背後を覗き込んどった白石は、一転して輝いたはずの表情を怪訝に顰め、俺に向けて来よる。何や一体。

「猫なんてどこにもおらへんやん」
「は? 何言うてねん、尻尾が二本ある猫が、千歳の、背中……に……」

 おかしなこと言う白石にそう返しながら、自分こそおかしなこと言うてることを初めて自覚して、言葉が尻つぼみになる。
 見えとると思っとったもんが実際には見えてなくて、“それ”を言葉にした時、初めてそのことに気付いたんや。
 パステルカラーに色付けされとったもんが突然原色になったような、0.1の視力が瞬きの一瞬で10.0になっとったような。唐突で、だからこそ明白な変化であり異常性やった。

 いや、けど世の中には、科学では証明できひん摩訶不思議な事象がいくらでもあるもんや。
 実際に俺なんて、ここ一年弱の間に何遍も体験して来たし。死にかけたし。
 せやから尻尾が二本ある猫の存在かて、珍しいのはあるかもしれんけど、摩訶不思議と言うほどではないはずや。絶対に。恐らく。……きっと。

「謙也、この仔が見えとっと?」

 だがしかし、自分でもちと無理があるのはわかっとっても認め難かった現実を、“それ”を背負ってる千歳本人によって打ち砕かれた。
 何をそんなに驚いた顔しとんねん。俺は自分が“それ”を背負っとるのを自覚してたことに驚いたわ。

「……視える、けど、何ちゅーもん拾って来とんねん! 今すぐ捨てて来 ――― たら、後が怖いわ。やっぱナシ」
「大丈夫、問題なか。肩に登りたくても登れけんで一生懸命なって、むぞらしかよ」
「そういうことちゃうわ!!」

 暢気な当事者の千歳に対して焦りまくりの自分がアホみたいやけど、だからこそ落ち着いてもいられへん。
 どうやらこの猫、尻尾が二本あって珍しいだけちゃうみたいや。明らかに視界に入っとったはずの白石に認識できとらんっちゅーことは、つまりはそういう存在なんやろ。それにしては、いつもと感じがちゃうけど。
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