「謙也? どないした?」

 後は俺一人に任せとけと、俺らの反対を押し切ったユウジの指示に渋々従い、昇降口に向ことる途中。突然立ち止まった俺に、侑士が訊ねてくる。
 俺は咄嗟に、今し方至った可能性を話そうとして、せやけど思い止まった。
 ユウジが頑なになって俺らを遠ざけたのは、来るとわかっとる反発による被害が俺らに及ばんよう、その可能性を少しでも減らすためやろう。せやのに俺がここで話してまえば、侑士も光も一緒に行く言うのは目に見えとるし、そんなんしたらユウジの決断が無駄になってまう。かと言って、ユウジの身に降り掛かるとわかっとる危険を無視はできひん。
 そんなんしたら、ほんまにユウジを犠牲にするだけやん。それだけは絶対に認められん。認められるはずがあらへん。

「……俺、やっぱりユウジのとこ行くわ。ユウジ一人には押し付けられへん」
「……せやな。ほな俺も行くで」
「俺も行きます」
「いや、侑士と光はユウジの指示通り昇降口に行って、ユウジがさんの席に座ったと同時に出られるようにスタンバっとけ。行くのは俺一人で充分や」
「は? 何を言うとんねん。一氏だけもアカンけど、謙也だけを行かすのもアカンに決まっとるやろ」
「忍足さんの言う通りっすわ。行くなら三人で行きましょ」

 一人で事を成そうとしたユウジに反対しとったように、侑士も光も俺の意見に勿論反対した。さっきはユウジに押し切られた分、今度はこっちが頑なになっとる。
 俺かて二人の立場ならそうしとる。
 せやけど今回は、俺もユウジと同じく俺の我を通させてもらう。ユウジのためにも、二人のためにも、二人を連れてくわけにはいかんのや。

「アカン。光は教室の連中にでさえ認識されとるし、俺と侑士が一緒におったらさっきの二の舞や。でも俺一人だけなら、“アレ”は大したもんやない」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「大丈夫やて。侑士もそないな怖い顔せんで、光のこと宜しく頼むで。光も、侑士はこういうことは今回が初めてやから、フォローを頼むな」

 念のため、卑怯とわかっとる言い回しで二人が隠れて付いてくることがないよう釘を刺して、俺は二人を先に行かせた。
 幸い“アレ”が特別棟に来んのはわかっとるし、このまま特別棟の一階に移動してから教室棟に渡れば、昇降口はすぐそこや。何より“アレ”は今ユウジが引き付けとるから、ユウジのアホな単独行動が俺の安心を招いとるとか、何たる皮肉やろ。
 何度も振り返る二人の姿が踊り場を曲がって見えなくなるまで見送る。そうして侑士との距離が一階分離れただけで、いろんなことがわかってくる。

(視えて、聞こえて、触れられるだけやなく、人より多くのことを知ることができるっちゅーさんが日頃感じとるのも、こんななんやろか?)

 感傷的になるのもほどほどに。俺は近くの渡り廊下を駆け抜けた。
 授業時間の今、各教室には相変わらず整然と並んだ気配があって、連中にとってはいつもと変わらん日常が営まれとる。それに八つ当たりでも何でも、若干イラッとせんこともなかったけど、今はそれよりもユウジや。

 俺がおるのは二階。集中するまでもなく感じる“アレ”の気配は ――― 早くも四階にある!
 しかも時間的にだけやなく、速度的にも、今までずっと重たい足取りでのろのろしとったのが、普通に歩くほどまで速まっとる。それだけ急いて進む先に何があるのか、誰がおるのかなんて、考えるまでもあらへん。
 近くの階段を二段跳びで四階まで駆け上り、昇降口側とは反対にある空き教室まで見渡せる廊下に出る。そうすれば必然、“アレ”の姿が目に入る。

 最初に“アレ”を視た時は、磨り硝子越しやったし思えば傍におった侑士の影響もあったしで、俺にはただの“影”にしか視えへんかった。
 何にも遮られずに視た二度目かて、やっぱり侑士が傍におったからか、俺には影と変わらん黒い“何か”にしか視えへんかった。
 それが今はどうや。何にも遮られとらんかったら、傍に侑士がおる訳でもあらへんこの状況で視た“アレ”は、今までのどの姿とも違た。

 まず、顔があった。必然的に目もあったし口もあったし鼻もあった。せやけど、一人分だけやないんや。
 数えることができひんちゅーより、数えてられるだけ直視ができひん。大きな塊にいくつもの顔を貼り付けたとでも言えばええんか、それもところどころ歪んだり別の顔に引っ張られたり、一つの顔の中に別の顔が割り込んで混じり合ったりしとるのもあった。――― それが“アレ”の正体やった。
 視たのは一瞬で、その気持ち悪さにすぐさま目を逸らしたけど、それでも脳裏に焼き付く強烈さやった。込み上げてくる吐き気を必死にやり過ごす。

 同時に、妙な納得もあった。
 あれだけ無数の顔があれば、それだけ“声”が何重にもなるのは必然やし、ユウジが取り憑かれるのは目が合うた霊なんやから、顔があるのも当然や。
 そして、ようやく思い至る。
 俺からしたら“アレ”は日常的に遭遇するのと大差ない存在で、俺の力のが強いから、ビビるほどのもんやないけど。ここをヤバい言うてた光みたいに、俺の力を知覚できひんユウジにしたら、“アレ”はそれほど力の差がある存在とちゃうんやないか?

 遅すぎた理解と、今まさにユウジに迫っとる危機に前を向く。
 俺が目を逸らしとった間にも状況は進行して、“アレ”が空き教室に這い入ってく姿に、俺は全力も全力で廊下を駆けた。

「――― ユウジ!!!」

 俺が空き教室に駆け込んだ時、“アレ”は俺らにもしたように、頭から丸飲みする蛇みたいに、ユウジに覆い被さろうとしとった。駆け込んだ勢いで俺が咄嗟にユウジの名前を叫べば、目を閉じとったユウジがはっと目を開き ――― “アレ”と目が合うた。
 瞬間、ユウジの身体が雷にでも打たれたみたいに震えて、くずおれた身体が上手い具合に椅子の上に落ちた。そのまた瞬間、歓喜とも悲鳴とも取れる、俺には聞こえへんはずの“声”に脳みそが揺さぶられた。
 それでも俺の身体は動いとったし、後先なんて考えとらんかったら、考えとる余裕もなかった。ユウジの許に駆け寄って、そして。

「――― 重いのだけど」

 何が起こっとるのか、さっぱりわからんかった。
 ただ俺の下にさんがおって、俺がさんを押し倒した態勢でおるっちゅーことはわかる。

「……あれ?」
「一先ず、退いてもらえる?」
「え、あ、ああ。すんません」

 言われた通りさんの上から退いて立ち上がり、起き上がったさんに手を差し出す。するとさんは俺と差し出した手を何度か交互に見てから、手をとって立ち上がる。
 お尻や背中の埃を払いながら、さんは傍らの、俺が最後に見た状態で椅子に座ったまま微動だにせえへんユウジの正面に回った。
 さんがそうしてようやく、今さっきまでのことを思い出して、俺は血の気が引いた。

「ユウジ!?」
「触らないで」

 ユウジの肩を掴もうとした俺の手を、さんの鋭い声が制す。
 何で、と思た。けど覗き込んだユウジの様子を見れば只事でないんは一目瞭然で、下手な介入を躊躇さすには充分なインパクトを持っとる。
 茫然自失と言えればまだええ。今のユウジは焦点の合っとらん瞳で虚空を見つめ、呼吸はしとるけどただそれだけっちゅー状態で、周りの俺らに全く反応をせんかった。最悪の可能性が脳裏を過ぎる。

「君が触れたら君まで引きずられて、ますます面倒なことになる」
「ひ、引きずられるって……」
「折角意識的に避けてたんだから、君はそのまま深入りしない方がいい。それでなくとも今回は数が多いから、君の精神衛生上よろしくない」

 あの空間にいてへんかっただけやなく、俺が心の中で考えるに留めとった内容を、何でさんが知っとんねん。しかも毎度お馴染みで、さらっと恐ろしいこと言いよるし。
 まあ、それでこそのさんやし、そう思て妙な安堵感を得とる辺り、俺もかなり毒されとる。できれは慣れたなかったけど。
 いや、それより今はユウジや。さんの言葉から察するに、つまり今のユウジは精神衛生上よくないもんの被害を受けとるっちゅーことになる。一体どないすれば……。

 俺がそう考えた時にはさんが動いとった。

 さんは自分とユウジの間にある机を押し退けると、ユウジの膝に跨がり、その頭を胸元に抱き込んだんや。……って、え。
 一体何が起こっとるのか、見たままなんはわかるけど、それと理解するのとはまた別な話な訳で、俺は衝撃のあまりぽかんと口を開けて立ち尽くした。混乱する意識の片隅がこっちに近付いてくる複数の足音を聞いとったけど、そんなん構っとる余裕なんてあらへん。
 すると身体の両脇にぶら下がっとるだけやったユウジの腕がびくりと動いて、かと思えば、その腕は縋り付くみたいにさんの背中へ素早く回り ――― ガタンッと、背後にある戸が破壊音に等しい激しさで開かれた。

「ユウジ!? 謙也!? 無事、か ――― え」

 聞こえた声から、先頭切って駆け込んで来たのが白石やとわかるけど、振り返って確認するだけの余裕が俺にはあらへん。
 さんの胸に顔を埋めてくぐもっとるだけやなく、震えた声で「し、死ぬかと思った……」言うとるユウジの気持ちはわからんでもないけど、背後との温度差が半端なくて、位置的に両者の間に挟まれとる俺の居心地の悪さいうたらなかった。
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