不気味な雰囲気の校舎に閉じ込められてもうてから、一体どれくらいの時間が経ったんか。空き教室の壁掛け時計は意味深な四時四十四分で止まっとったし、部活を再開するとこやったから、使えたかどうかは別にして腕時計も携帯も持っとらんかった俺らに、それを知る術はあらへん。ただ少なくとも、軽く一時間は経ってるんやないかと思う。
 これを長いと思うか短いと思うかは人それぞれやけど、精神的にクる状況や。決して短いもんではあらへん。普通ならとっくに気が狂っとってもおかしないで。普通なら。
 ――― そう、つまり悲しいかな。こちとら無駄に経験だけは豊富さかい。今更ながら、こら前にさんから図太くなった言われて当然やったと実感したわ。

 何故なら今の俺は単独行動中で、にも関わらず、心は至って穏やかなもんだったからや。
 けど別に、この行動は他の三人と引き離されたからやない。飽く迄自主的で、ちゃんとした目的あっての行動やった。

(にしても……)

 行きはユウジに引きずられた道順を戻りながら、思う。
 境界線を跨いでこっちに踏み込んでしもた時には、ほんの一瞬で消えてしもた違和感ぐらいしかあらへんかったのに。侑士らが身を潜めとる特別棟の四階から一つ階を移動しただけでも、まさかこんなにも感じ方がちゃうもんなのかと、素直に驚いた。

 正直なことを言えば、ユウジにこの目的を果たすのに四人の中で一番の適任が俺やと言われ、更に「本来の謙也なら敵なしや」のお墨付きをもらっとっても、半信半疑どころか寧ろ疑心しかなかったんやけど。
 実際にこうして出歩いとると、さっきまでの俺は一体何をそない怯えることがあったんか、我ながら理解に苦しむわ。そのくらい、この空間におる存在と俺とでは力の差が歴然としとる。
 最初からずっと恐怖しかなかった“アレ”でさえ、今の俺にしたら、日頃から路上で遭遇する連中と大差ない。そんなレベルや。一番ヤバいと思とった“アレ”がそうなんやから、つまりさんの理論で行くと、幸いにもこの空間に俺を認識できるもんはおらん。せやから俺をご馳走として襲って来れる存在もおらんかった。
 そう考えると、確かにこの件で俺以上の適任はおらんわな。

 それでも一つ問題があった。“アレ”は複数の霊が同じ一つの思いを抱いて、たったの一つになっとるっちゅーことや。
 だからその念が強くて、あんま気にしとると引っ張られてまいそうになる。

 因みに、その“アレ”は今、教室棟の三階を徘徊しとる。
 俺が空き教室を出発し、こっちに近付くにつれて感じられるようなった気配の動きからみて、一階から順に回っとるみたいやな。

 この他にも、力が戻ってわかったことがある。ノイズ混じりやったチャイムとチャイムの間だけ、廊下に溢れとった仰山の気配についてや。
 ユウジに引きずられた遁走中に教室から感じたあれらの気配を改めて確認すると、連中は教室内にただおるだけやなく、縦も横も整然と並んどった。
 覚えのあるその並び方と光の話から察するに、恐らく各座席に着席しとるんやろ。
 それからこれは、こうした点を踏まえた俺の想像なんやけど、あれは所謂休み時間だったんやないかと思う。で、今は授業中。そして連中は今、机の並びの通りに着席しとる。死して幽霊に、肉体も魂も失った心だけの存在になりながら、それでも学校っちゅー場所に執着が ――― 思い入れがあるんや。だから死に切れずに留まっとる。

「――― ッ……」

 そんなことを考えた直後の一瞬、視界がブレたような感覚があった。同時にさんの声を聞いた気もする。
 けどこの空間にさんがおるはずないし、何が起こるのかわからんから、下手な干渉もできひんはずや。きっと気のせいやろ。
 いつの間にか止まっとった足を動かし、俺は改めて、目的地でありすぐそこに見えとる三年二組の教室に向こて歩き出した。

 取り敢えずは何事もなく二組の教室に到着して、教室後方の出入口に立つ。
 そして勝負はここからや。
 いくらさんに図太くなった言われとっても、それと度胸は全くの別物やから躊躇いが半端ないんやけど、俺は意を決して、でも実際にはやっぱり踏み込み切れんで恐る恐ると、閉ざされとる戸を開いた。

 が、その絞り出した意気込みは無駄に終わった。開けようとした戸はガタガタいうだけで、ビクともせんかったんや。
 混乱と動揺で意固地になって、もしかしたらよくないもんを招くかもしれんことにも気付かず戸を揺らしまくっとると、さっき侑士と二人で聞いたノイズ混じりでところどころ音の飛んだチャイムが鳴り渡った。驚きに俺の方がビクついてもうて、戸から手が離れる。
 そん時、俺しかいてへんはずの見渡しが利く廊下に他の気配を感じて、振り返った。
 そこにおったのは四十代ぐらいの女の霊やった。不意打ちに戦いた俺を、せやけど女は素通りしてく。そういえば、この空間に俺より強い力の奴はいてへんかったっけ。忘れとったわ。

 しかもその女一人だけやない。各教室から一人ずつ男や女の霊が戸をすり抜ける形で姿を現し、更にはその後を追うように、教室の前後の戸から学ランやらセーラーやらブレザーやら着た霊が続々と現れたんや。
 斯く言う俺が立つ戸からも、ここらじゃ見たこともあらへん制服姿の霊たちが出て来て、戸だけやなく俺の身体まですり抜けてく。
 前にユウジの身体から弾き出されたオネェさんに身体をすり抜けられたことがあったけど、あの時とは比にならん悪寒が背筋を走った。思わず道を譲るように脇へ避けたわ。

 さっき俺がした想像の通り、やっぱりチャイムとチャイムの間は休み時間なのかもしれん。
 廊下を走ってふざけとる奴やお喋りに興じる奴とか、俺らの日常生活と変わらん光景が広がっとる。何や、複雑な気分やった。

 とにかく、俺はもう一度、教室内への進入を試みて戸に手を掛けた。ガラリ、拍子抜けするくらいあっさり開く。
 中の様子もまた、俺の知る日常と大差のあらへん光景やった。親しい奴のとこへ遊び行って笑てる奴や、俺の目には何の字も視えへん黒板を見ながら必死に書き写す動作をしとる奴や、何が面白いんか夕暮れと夜が混じった紫色の空をぼうっと眺めとる奴。そんな光景や。
 ほんまに、視えるばかりの俺には訳がわからんわ。知ろうと思えばできひんこともないけど、引きずられるばっかの俺だけで試みるにはあまりに危険な方法やし、今必要な情報とも思えへん。
 大体、この調子やと予想通りほんまに一千人以上の霊がおるのやから、そんなんいちいち確認してられへんわ。

 ちゅー訳で気持ちを切り替えて、さっさと目的済ませてまお。
 俺らの推測がどこまで当たっとるのか、視るだけで終了する事実確認や。

「――― え」

 その結果、思わず声が漏れた。
 けど戸を開ける音がしたにも関わらず全くの無反応を決められた俺に問題はあらへん。問題はもっと別のとこや。

 俺らの推測やと、残り最後の椅子に座るため一つになり続けとる“アレ”が、なかなか見つけられへん座席を探すために霊媒体質のユウジを利用しようと、俺ら ――― 厳密にはユウジをこの空間に閉じ込めたっちゅーことやった。
 そしてその最後の椅子は、霊たちにとっては“存在してへん存在”であるさんの席で、ほんまにさんの席が空席かどうか確認するため、俺はこうして一人で行動しとる。
 それが実際はどうや。窓側の最後尾の、所謂特等席。俺の席の後ろ、さんの席には、ブレザー姿の男子生徒が座っとった。つまり“アレ”の探す最後の席はさんの席やないっちゅー話や。

 どこや、俺らの推測のどこが間違うとった。この推測を確信と言ってええほど信じて疑っとらんかっただけに、動揺はデカい。
 けどこんな時こそ落ち着かなアカンことを、こちとら身に沁みて知っとる。意識して深呼吸する。――― ヨシッ!!

 俺らを閉じ込めた不気味な校舎。
 その校舎で、まるで普通の学校生活を送っとるかのように過ごしとる仰山の霊たち。
 一方で、校舎内を徘徊しとる複数の霊が一つに融合した“何か”
 その“何か”が探し回っとる残り最後の座席
 ユウジの霊媒体質。
 霊たちからしたら存在してへんさんの存在
 さんが所持、或いは接触しとった物に伝染するその特性。
 だから、霊である“何か”には認識できひんさんの席。

 ――― 瞬間、俺は弾かれたみたいに駆け出した。
 すぐ近くの階段を一つ駆け上って、さっきの躊躇いも忘れた慌ただしさで、二年一組の教室の戸を開け放つ。廊下の光景も教室内の光景も、一階で視たのと変わらん。ただ一つ、いくら見回しても、どうやったって見つけられへん席がある以外は。
 確か教室の真ん中辺りやったはずや。二年の頃、夏休み以降の期間に一度も席替えが行われずに、転入からずっとさんが座り続けとった席は。

 そして見つけられへんことが、俺にとっては何よりの確信やった。
 だってさんが毎日使てるルーズリーフでさえ、後輩の手から俺らのとこに届くまでの少しの時間で効果が薄まっとったんや。せやのに連中は、何を言うとるのか“声”が重なり過ぎてわからん数の霊が一つになるほどの時間、未だにたった一つの席を見つけられずにおる。
 そしてそれは、感覚が霊のそれに近い俺にも当て嵌まることや。
 思えば二年の頃の俺は“さんと白石のとこ”やなく、“白石のとこ”に行ってる感覚やった。で、挨拶やら「また来たんだ」っちゅーつれない言葉を掛けられて初めて、“さんと白石のとこ”におるっちゅー感覚になっとった。

 けど俺らの推測が当たっとって、最後の席を見つけることができたところで、今度は別の問題が浮上してもうた。
 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、四階も徘徊したにしてはあまりにも早く、そしていつの間にか一階に移動しとる“アレ”の気配を感じながら、俺は音もなく固く閉ざされた戸を背にして途方に暮れた。
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