土足で校舎内を歩き回るのは心理的に憚られる行為やったけど、こんな状況やしそこは大目に見てもらうとしてや。

 ここ四天宝寺中は全学年八クラス編成の計二十四クラスで構成され、また校舎は職員室や図書室なんかの特別教室が集中する特別棟と、学級教室と特別棟には収まらんかった特別教室のいくつかがある教室棟の二つに大きく分かれとる。
 教室棟は最上階の四階に俺らがよう集まる視聴覚室があって、あとは階が下がるのに反比例して学年が下がり、これはどこの学校も同じと思うけど、一年一組の上は二年一組やし二年一組の上は三年一組っちゅー、縦割りの位置関係になっとる。
 で、俺らが身を潜めとった空き教室は二階。位置としては八組側で、目的地である三年二組の教室とはまるっきり反対側やった。

 ここから三年二組へ行くのにそないルートがある訳やなかったら、道のりや付きまとう危険にも大差はあらへん。ちゅーことで、さっきの件にも挙げられる感知能力の点で選択を一任された俺は、一先ず、一度は上った階段から一階に下りた。
 何故なら一つ、とある可能性の確認をしたかったからや。
 そうして戻って来たスタート地点の昇降口で、予想しとったとはいえ、実際に目の当たりにした異常性を改めて思い知らされる。

 靴を履き替えようとした時に確認できたんは、自分のクラスと隣の一組。それと下駄箱が対面しとる三組と四組だけやったけど、本来あるべき上靴に代わって謎の外靴が下駄箱に収められとるのは、全学年共通で起こっとる事象やった。
 これを単純に、ありのまま受け入れるとしたらや。四天宝寺中に一千人以上おる生徒の数だけあっち側の存在が校舎内におるっちゅーことになる。そんなん本来なら俺が感知しとってもええとこやけど、さっきから魑魅魍魎の類いも一切感知できひんように、何も感じられへん。

(けど実際、こうなっとるっちゅーことは、やっぱり……)

 確信を求めて、俺は昇降口から一番近い三年八組の教室前に身を潜め、中の様子を窺い知ろうと試みた。
 せやけど中から外の様子が見えへんかったように、外からも中からの様子が見えへん磨り硝子越しや。教室内を見ることはかなわんし、また視ることも感じることもできひん。ほんまに何でやろ。

 さんの能力値解釈するなら、俺以上に力のあるもんしかいてへんからっちゅーことになる。また転じて、俺より力の弱いのが一切いてへんっちゅーことでもある。けど流石に、いくら何でもそらおかしな話や。
 それにさっきのチャイムとチャイムの間に溢れとった仰山の気配。さっきは感知できたのに、今はさっぱり感じられへんっちゅーのがまたおかしい。

(向こうの力が強なっとるのか?)

 だとしたら厄介な話や。
 さんの助けを期待できひんこの状況下で、果たして俺らの手に負えるものなんかどうか……。

 思考が後ろ向きに働いたその時や。俺が腕を掴んどるんで、必然的に俺の後に続く形になっとった侑士から、侑士にしたら訳のわからん俺の行動に対して非難が挙がった。ちゅーても言葉やなく、動作でや。
 俺の掴む腕を自分の方へ引き寄せて俺の意識を自分に向けさせた侑士は、恐らく文句かその類いを言おうとしたんやろ。せやけど何が霊を引き寄せるかわからんから、少しでもリスクを減らすために、俺はしっと立てた人差し指一本で侑士を制した。
 怪訝とも不安とも取れる表情の侑士に口の動きだけで「後で話す」と伝え、今だけでもその心が少しは安寧であれるように笑って見せる。
 状況はいまいち把握しきれんけど、一先ず今は当初の目的地を目指して、俺らは廊下を進んだ。

 一直線に延びる廊下は見渡しが利いて、八組の教室前からでも見える二組までの移動には、特に何の問題も起きひんかった。精々この状況からくる緊張に、いつもより道のりが遠く感じられたくらいや。
 ただ問題なんはここから。戸を隔てた二組の様子はやっぱり見えへんし視えんし感じひん。だからこそ、ほんまに開けてええものなんか本気で悩む。
 そう躊躇しとるとまた侑士が動作して、俺が目を向けると目の前の戸を指差しながら、口パクで「入らへんのか?」と訴えてくる。けどここは入る入らへんの問題やなく、入りたくても入られへんちゅーのが正しい状況や。かと言って、ここで引き返したところで他に行く宛はあらへん。

 どうしたもんかと、当惑しとった時やった。

「――― 後ろや!!」

 思わぬ声で飛んだ指示に驚くより先に、ここ一年弱ですっかり身に染み付いた条件反射が働いた。
 侑士を突き飛ばして、俺もその反動で侑士と反対側に態勢を崩した ――― 刹那、悪寒が背筋を駆け上った。同時に身体が硬直して、立て直せるはずの態勢を立て直せへんまま尻餅をつく。完全に無防備やったところを襲った痛みに、せやけど構っとる余裕はあらへん。
 何、と表現するんは難しい。視たままを言えば、ただ黒いとしか言いようのあらへん“何か”や。それが、今さっきまで俺らの立っとった場所で蠢いとった。
 その様子はまるで、仕留めた獲物に喰らい付いて貪る獣のようにも見えた。あと少し反応が遅かったらどうなっとったことか、過ぎった想像に身の毛が弥立つ。

 永遠にも思えた衝撃やけど、現実はほんの一瞬。
 へたり込んだ身体を支えるのに後ろで付いとった腕を不意に攫われて、引っ張り上げられる。

「ボケッとしとんな! はよ立たんかい!!」

 そしてまた、さっき俺らの危機を間一髪で救った声が叫ぶ。
 はっとして、無意識の反射で立ち上がりながら振り仰げば、そこには聞き間違いやなかったら見間違いでもあらへん、ユウジの姿があった。
 せやけど侑士の推測が当たっとったことに嘆く暇も、探し人が五体満足で見つかったことに喜ぶ余裕もあらへん。俺が立ち上がるなり、ユウジは俺らがさっき来た道を戻る形で慌ただしく走り出した。

「ちょ、待てやユウジ! まだ侑士が」
「あっちは光に任せとけ! ええから今は走るんや!!」

 腕を引っ張られて走りながらどうにか後ろを確認すれば、ユウジが言うた通り“何か”を挟んだ反対側には、侑士の腕を引っ張って階段のある角を丁度曲がった光の背中と、状況把握がまだ追い付いとらんのか光の為すがままになっとる侑士の姿があった。
 何が何だかようわからんし、まだ無事が確定したわけではあらへんけど、一先ず向こうも逃げ出すことはできたのを確認できて、俺もまた自分が逃げるのに集中した。

 けどそれもすぐにままならんようになる。何故なら三組、四組、五組と、次々に教室の前を駆け抜ける度に、感じるんや。それぞれの教室の中に溢れとる存在を。
 それはついさっき、感じ取ろうとしても感じ取れへんかったチャイムとチャイムの間の時間、廊下に溢れとった気配たちに他ならんかった。
 それらが今ははっきりと感じられて、集中せんでも壁や戸越しに認識できたんや。さっきはほんまに何も視えへんし感じられへんかったのに、何がどうなっとるのかサッパリわからん。

 混乱する俺を余所に、俺を先導するユウジは渡り廊下を渡って特別棟に移動し、近くの階段を駆け上った。そして四階まで来て廊下に出る。廊下の反対側には向こうから駆けて来る光と侑士の姿があった。
 俺ら側に近かった空き教室に俺らが入ってすぐに光と侑士も中に転がり込んで、全員が中に入ったのに合わせて、ユウジが戸も鍵も閉めてまう。
 ここでようやく、人心地つけた。

「全員、無事やな……?」
「あ、ああ……けど“アレ”って、一体何だったんや……?」

 安否を問うユウジに答えてから問いを返したけど、ユウジからの返答はあらへん。
 ただユウジがその答を持たへんからだけだったからかも知れんけど、見れば怪訝な眼差しと目が合うたから、どうもそうではないらしい。

「……自分、ほんまに謙也か?」
「は? 当たり前やん。ちゅーか、それってどういう意味や?」

 ユウジが変なこと訊いてきよるから、隣で座り込んどった光が身を退いて、普通に傷付いたんやけど。

「ほなら何で、そない弱っちくな ――― いや、ちゃうな。さっきここに来るまではいつもの謙也やったし、けどその前の謙也は……」

 途中で言葉を切ったユウジに、いい予感はせぇへん。
 言うとくけど、俺は俺であって、俺の振りした“誰か”とちゃうで!? だから光、じわじわ俺との距離空けんといて!

「……前にが言うてた能力値の話があるやろ?」
「お、おう」
「あれに則った場合、純粋な力の強さで言えば、俺らの中で一番強いんはお前や、謙也」
「え、そうなん?」

 さんに言われてそれなりに力があることは知っとった。せやけど、ただ視えるだけの俺が、遠くの“声”まで聞こえる光や、視ることも“声”を聞くこともできるユウジ。仰山の霊に憑かれながらも、平気な顔して生きてられる白石より強いとか、思ってもみいひんかったんやけど。
 そうだったんかと驚いて光の方も見れば、逆に「自覚なかったんすか?」と訊かれてしもて、俺は驚愕に固まった頭でただ頷いた。

「せやから俺らには、謙也の力がどれだけのもんかは具体的にはわからん。メーター振り切ってしもとるんやから当然や。――― けど今の謙也は俺の下も下。実際、俺が言うまでさっきの“アレ”に気付いてへんかったやろ?」

 ユウジの言う“アレ”が何かは、すぐにわかった。
 けどユウジの上を行っとったはずの俺の力が急に下回った理由には、皆目見当がつかんかった。そんなん寧ろ俺が訊きたいわ。

 そう思た時、その手は挙がった。
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