と、声高に行き先を宣言して意気込んだのはええけど、そこへ向かうに辺り一つ問題がある。
 俺は固より侑士にも、何一つ自衛の手段がないっちゅーことや。
 聞けば侑士はいつも事前に危険を察知して回避して来たから、実はこれが初の心霊体験らしい。影だけとは言え霊を視たのもさっきが初めてやし、俺には鳥肌もんのアレに俺ほどの危機感はなかったっちゅー話や。ただ影を見た瞬間に背筋がぞわぞわしたいくらいやと。

「足には自信あるから走って行くのもええけど、途中正面から遭遇せんとも限らんし……」
「それは謙也に限った話やろ。かと言って、こそこそ隠れながら行っても何と遭遇するかわからんし。それならいっそ、一気に駆け抜けた方がええんやないか?」

 戸の前に立ったのはええけど、そこから先に進まん議論に何が一番ええ選択なのかわからんようになってた時や。――― ザザッ、と各教室に一つ設置されとるスピーカーから、ノイズが走った。
 弾かれたように振り仰いだ直後、耳慣れたもんより若干こもって、ノイズ混じりにところどころ音の飛んだチャイムが校舎に鳴り渡った。

「な、何や……!?」

 この状況に、いつもスかした態度しとる流石の侑士も動揺を露わにする。
 けど俺に訊かれたかて、俺も経験が多いだけで詳しいわけやないから答えられるもんやない。ただ何が起きてもええように心構えだけはしっかりして、できればその必要がないようにじっと息を殺す。
 そして、チャイムが鳴り終わった時には、既に変化が起こっとった。

 悪寒、ちゅーほどのもんやない。産毛を撫でられるようなぞわぞわした感覚が肌を舐めて、背筋がぞっと震える。それも一瞬やなく継続的にや。
 せやけど俺の第六感が伝える危険信号とはまたちゃう感覚やから、少なくともさっきの“影”みたいなヤバさはあらへん。ちゅーても、こんな状況や。今はヤバくなくても、何がどう転じて、それがいつ牙を剥いてくるのかわからん以上、警戒は増した。
 そん時や。視界の端を何かが掠めた気がして、俺はそちらを ――― 戸の磨り硝子に目を向けた。さっきみたいに影が映っとるわけやないけど、でも、“何か”がおると俺の感覚が告げとる。一つや二つでは済まされへん、それも仰山。
 俺がそう一点を凝視しとるからか、それとも同じくその勘が何かを告げとるのか、侑士もまた磨り硝子を見つめて沈黙する。

 どれくらい、そうしとったやろか。不意にまた、ノイズ混じりで途切れ途切れのこもったチャイムが鳴り渡った。
 そして再び、チャイムが鳴り終わった時には、既に変化があった。今さっきまで確かにあった、不特定多数の気配が跡形もなく消え去っとったんや。

「……今、何か……おったよな?」
「あ、ああ……何、とは言われへんけど。さっきの“影”とはちゃうのが、ごちゃごちゃと……」
「は? ごちゃごちゃって……そんなにか!?」

 冷静さを取り戻せてへん侑士の恐る恐るとした質問に答えれば、侑士は更にぎょっとして声をひっくり返す。どうやら侑士には、廊下の気配には気付けてもその数まではわからんかったらしい。
 自分の口から出た声のデカさにか、それとも普段は冷静さをウリにしとる自分がそれを欠いたことにか、侑士ははっとしたかと思えば努めて落ち着きを取り戻そうと、何度か意識的な呼吸を繰り返した。

「……確かに。俺にわかる限りでも、あの“影”とちゃうとは思うけど、大丈夫なん? そないなんが仰山おるとわかっとるのに、迂闊に出歩いて……」
「俺かて詳しくないから、そらわからんけど……。少なくともさっきのからは嫌な感じがせんかったし、大丈夫やと思う」
「待て待て! そない曖昧な根拠、こっちは命掛かっとるんやで!?」
「せやかて、このままじっとしとってもしゃーないやろ。生き残りたいなら行動せな、ここで御陀仏やぞ」

 けど今回ばかりは、侑士の虚勢も長くは保たんかった。
 その代わり、自分より動揺しとる人間がおると逆に冷静になるっちゅーことで、俺の方は落ち着いとった。経験値の違いもあるやろけど、侑士の状態を分析できるだけのゆとりはある。
 だからこそ理解しとった。今回の件は俺らが動かん限り、脱出は不可能やと。

「言うても、その……さん、やったか? こういう時いつも助けられてたっちゅーなら、今回も大人しく助けを待っとった方がええんとちゃうか?」
「そらアカン。ユウジの性質はそない悠長なこと言うてられるもんやなし、それに……待つだけ無駄や。さんの助けは来うへん ――― いや、来られへん」
「な、何でや!!?」

 完全に余裕をなくした侑士に詰め寄られる。

さんの力は規格外なんや。だからこそ、力を使ったその分だけリスクはデカなる。しかも跳ね返ったもんを被るのは、さん以外の周りの方ときとる」
「な、何やねん、それ。諸刃の剣やないか」
「世の中何事もメリットばっかやないし、そら当然やろ」

 そう、いくら力が強かろうと能力に優れてようと、万能なもんなんてこの世にはあらへん。だからこそ、さんはずっと苦しんできたんや。
 俺らはそれを理解した上で、さんの助けが確実やなかったりほんまに紙一重の救済だったりしても、それを受け入れとる。助けがあるだけでも有り難いことなんやから、それ以上を望むのは我が侭っちゅー話や。ちゃんと弁えて、与えられるのが当たり前になってもうたらアカン。

「兎に角、ユウジと光も俺らみたいに閉じ込められとるのかはわからんけど、行動せな何にもならん。一先ず三年二組に向かうで」

 そう言って、俺は腰が引けとる侑士の腕を引いた。
 これは文字通り侑士の腕を引くためなのは勿論、他人の温もりが与えてくれる安堵感ちゅーのを身に沁みて知っとる俺が、現状せめてできる最大限の厚意だからや。
 あと現実的な話、連中に侑士と分断されへんようするための対策やった。現世への恨み辛みで留まっとるのが大半なだけあって、連中の生きてる者に対する行為はえげつないの極みやからな。

 まず廊下の気配を探ってからそっと戸を開ける。隙間から頭だけ出して、今度は視覚で様子を窺った廊下は、さっき昇降口から見た夕方と夜が溶け合ったような色に照らされ、不気味の一言に尽きた。
 けど、ただ不気味なだけで、悪寒とかの嫌な感じはせぇへん。
 そこが逆に恐ろしいとこやけど、最早自衛手段がないとか言ってられへん状況なんやし、何もないんやったら、これはこれで有り難く思とこ。疑心暗鬼が過ぎとったら、いつまで経っても先に進まれへんわ。

「ほら、行くで侑士」
「……ちょい、五秒待ってや」

 言うて、侑士は大きく息を吸い、ゆっくり深々と吐き出した。

「――― 行こか」

 今度はどこまで取り繕えるのか知らんけど、一見冷静さを取り戻したように見える侑士と俺は顔を見合わせて、頷いた。
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