「……あれ?」 おかしい、と思ったんは、校舎へ入るにあたって靴を履き替えようと自分の下駄箱に手を伸ばした時やった。 特に持ち帰っとらんかった上靴を取ろうとして、手を止める。何故って、俺の場所として割り当てられた下駄箱に上靴が存在しとらんかったからや。その代わり、見覚えのない外靴が収まっとる。 この下駄箱になって約一ヶ月。すっかり慣れた気でいたけど場所を間違えたんかと思い、一歩下がって三年二組の下駄箱全体を見渡した俺は、そこで息を呑んだ。上靴やなく外靴が収まった下駄箱は俺のとこだけやなくクラス全体 ――― 否、はっとして確認した隣の一組の下駄箱も、対面になっとる三組と四組の下駄箱もまた同じやった。 けど、それはあまりに奇妙な話や。 だって今日は祝日やぞ。平日なら何らおかしくないけど、何で休みの日に下駄箱が外靴で埋まっとんねん。 それって逆に考えれば、外靴の数だけ登校して来とる奴がおるっちゅーことやろ。クラスに何人かおる文化部のが主体の人間だけとかやなく、クラス全体が。俺の下駄箱を使とる、俺の知らん誰かが。 「……なぁ、謙也」 混乱と動揺に硬直した身体が、すっかり存在を失念しとった侑士の呼び掛けで我に返る。 思わずビクついて侑士を見れば、侑士の視線は俺の方やなく外の方を向いとった。それをたどって、また違和感を覚える。 「ここ、どこや」 「……は?」 「空。俺らさっきまで、昼休憩が終わったばかりでまだまだ太陽が眩しい、日中におったよな?」 言われて気付く。侑士の言う通り、天気が良かった今日の空模様からして青色が広がっとるべき空は、夕暮れと夜が混じり合ったような紫色をしとった。まるで、知らん内に何時間も経過したかのように。 更に言えば、俺らが来た時には開いとったはずの昇降口はいつの間にか音もなく堅く閉ざされ、鍵を開けてもびくともせんかった。 「嘘やろ!? ここって神域やなかったんか……!」 そらまあ、絶対ではない言われてたし、実際あの女とか白石に取り憑いとるもんとか例外があるから、在り得へんことではなかったけども。 そんでも、まさか学校そのものが危険地帯に転じるとか、一体誰が想像しとるかっちゅー話や! ……いや、けど学校って定番の心霊スポットやんな。 「謙也、意外に冷静やな。こういうことって初めてやないん?」 「閉じ込められるんは今回が初やけど、心霊関係はもう、毎日が地獄絵図や」 「……それって、ここ半月くらいのことか?」 項垂れて、侑士の質問によう考えんで答えたけど、神妙なそのトーンを怪訝に思って顔を上げる。 窺った侑士の表情は声音に合わんもんやったけど、従兄弟としての俺の目は誤魔化されへん。 「どうして、そう思うん?」 「……」 質問に質問を返すのは反則とわかっとるけど、侑士はそれを指摘せず、ただ沈黙した。 侑士がどうして半月なんて日数を出したのかはわからん。適当に挙げた数ならそれでもええけど、俺からすればそれはただの半月やない。 約半月前のことや。正式な手段と手続きを踏んだ、どう見ても生身の人間やった転入生が、転入からわずか二日目にして、猟奇的な怪奇現象と共に忽然と姿を消したのは。 しかも転入生の実在を証明する戸籍や手続きの書類なんかは、件の後すべて跡形もなく消え去っとったっちゅー話や。唯一俺らの記憶にだけ、その存在を残して……。 こないなこと、普通なら警察沙汰のマスコミ沙汰や。けどほんまの心霊現象に物理的な証拠は何一つあらへん。 そうなると事態は必然的に内々で収まるしかなく、行き場のない感情は騒動の中心 ――― さんへと集まった。実際は小石川を贔屓しとる神様の仕業やけど、そんなん知らん奴らにはさんしか思い当たる存在がいてへんのやから、そうなるんは極自然なことやった。 ちゅーても、さんに何か危害を及ぼす訳やない。どこか遠巻きで、騒動以前と然して変わらん。多分、何かしたら転入生の二の舞になるとでも思っとるんやないかと思う。 俺にとってのこの半月っちゅーんはそういう、非常にデリケートなもんやった。だからおいそれと肯定して、語れるもんやない。 せやけど、もし、侑士が何かしらの意味を持って半月と言うてたら? 「なあ、侑士? どうして黙りこくっとる ――― っ!!?」 重ねて問おうとした言葉が、背筋を駆け上がった悪寒によって、喉の奥に詰まる。 瞬間、気付いてしもた。いつもならもっとぞわぞわして悪寒は酷いし、俺より力の弱い魑魅魍魎がごろごろ視えとってもええのに。今この瞬間まで何もなかったっちゅーことに。 こんな、おかしな状態の校舎に閉じ込められるとるっちゅーのに、や。 「謙也? って、顔色真っ青やぞ!? やっぱり」 「――― 走れ!!」 「は!? ちょ、そんな顔色で走ったらぶっ倒れてまうやろ!」 「アホか! 死んだら元も子もないやろ!? ええから走れ!!」 一秒毎に悪化してく悪寒が何を物語っとるのかわからんほど、伊達に一年近く命の危機に見舞われ続けとらん。 俺の心配してくれとるのはええけど場合とちゃう話に、俺は侑士の腕を掴んで駆け出した。土足とかそんなん、今はどうでもええ。逃げることが最優先や! 空の色とか外に出られへんとか状況はおかしいけど、幸い教室の並びなんかは通い慣れた四天宝寺そのままやった。 迫る悪寒とは反対方向に向かって更に階段を一つ上がり、近場の空き教室に転がり込む。大した距離やないのに息が切れて、心臓がバクバクしとった。 けどこんなんで逃げ切れたとも、逃げ切れるとも思わん。 だって俺、碌でもないのに限って好かれる素質持ちやもん……。 「おい謙也、どういうことかちゃんと説明せぇ!」 「しっ! さんがおらんのや、見つかったら終いやぞ!」 騒ぎ立てる侑士の口を手で塞いで、息を殺す。走った分だけ一時は遠ざかった悪寒がまた、ぞわぞわと背筋を上がって来とった。 正直、咄嗟のこととは言え身を隠したのは失敗のような気がしとる。 せやかて校舎から外に出られへん以上、いつまでも走って逃げ続けるのは体力的に無茶な話やし、逃げる先で別の“何か”に遭遇せんとも限らん。ここは一か八かやり過ごすのが懸命に思えた。 そうしてじっとしとると、喧しく騒ぐ自分の心音とは別のもっと重たい、ズッ、ズッ、と引き擦るような音が徐々に近付いて来とった。 侑士にも聞こえたんか、引き剥がそうと俺の手を掴んどった手を止めて、訝しげに廊下と教室を仕切る戸を見つめる。 ズッ、ズッ、ズッ……。 音はゆっくりと確実に近付き、遂に俺らが身を潜める教室前の廊下に差し掛かった。 ズッ、ズッ、ズッ……。 足音、なんやと思う。戸の磨り硝子に人影とは思えん大きな影が映り、音に合わせて一歩ずつ前進してく。 影は反対側の磨り硝子の前も変わらん歩調のまま通り過ぎて、足音は遠ざかってった。けど音は消えても背筋の悪寒はまだ残っとったから、それもちゃんと消えるまでじっと息を殺し続ける。 果てのない、とてつもなく長い時間に思えた。 「………………はあぁぁ……」 ようやく悪寒が消えて、他にも何か嫌な気配がないことを確認してから、大きく息をつく。 安心から腰が抜けて、しばらく立てそうになかった。 俺のその様子に一先ずの安全を感じたんか、それでも廊下の方を気にして気配を殺すように縮こまりながら、侑士は声を潜めて訊いてくる。 「……アレ、何や?」 「わからん。けどヤバいもんなのは確かや」 「アホ、そんなん言われんでもわかるわ。俺が言うとるのはそういうことやのうて……」 言葉を躊躇うように一度視線を宙へと泳がせてから戻し、侑士は続ける。 「説明、してくれるんやろ?」 「……せやな。けど侑士こそ、ちゃんと説明せぇよ」 こんな状況になって何も説明せん訳にいかんし、俺より弁が立つ侑士相手に沈黙を続けられるとも思わんから、侑士の言葉に俺は素直に頷いた。 せやけど説明の必要があるのは何も俺だけやない。 何を根拠にしたんかわからん半月という日数に、疚しいことがなければ必要のあらへん沈黙。そしてさっき、駆け出す寸前で確かに聞いた“やっぱり”っちゅー言葉。そんな何かを確信した時に遣う言葉を口にした侑士は、あの時、何を確信したっちゅーんか。 俺の指摘に最初こそ厳しい表情をしとった侑士と睨み合うことしばし。 侑士に退く気がないのと一緒で俺にも退く気がないとわかったんか、侑士は諦めたみたいにため息をついた。 「わかった。けど聞きたい言うたんは謙也や。後悔して、ちびっても知らんで」 「侑士こそ。精々そのスかしたキャラが崩壊せんよう覚悟しときや」 今の状況がわかっとるのかと、この場に別の誰かがおれば怒りそうな軽口の応酬を交わして、俺らは互いにヘタクソな笑みを貼り付けた顔を見合わせた。 038*130816
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