翌日、朝からちょっと、意外なことがあった。

 いくら四天宝寺生いうても、朝はよから昼間のテンションを持つのは難しいのか、放課後に比べれば静かに行われる朝練中。
 何や一部の部員たちが落ち着かん様子であることに、俺は首を傾げた。その中には昨日さんから預かったプリントを届けてくれた新入部員もおって、みんなある方向を頻りに気にしとる。俺も視線をたどって同じ方を見たけど、特に何かがある訳でもないのに、や。
 せやけどそれは、どうやら俺に限ったもんらしい。

「あ、先輩」
「えっ! ど、どこや!?」
「は? どこって……」
「ここだけど」
「――― ッ!!?」

 ポツリ、光が口にした名前に一度は離した視線を戻して隈無く見るけど、俺の視界にさんの姿は映りようもない。
 光もそれは知っとるはずやけど、咄嗟に思い出せんかったんか、若干冷たい反応をされたのも束の間。横合いから探しとった当人に声を掛けられて、俺は文字通り跳び上がった。
 バッと振り返れば案の定、淡々とした声の通りの何食わぬ顔したさんが、コートを囲うフェンス越しに立っとった。

 何遍経験しても、ほ、ほんま、心臓に悪い……!

「おはようございます、先輩」
「おはよう」
「おっ、おは、よ……」
「おはよ」

 光と俺のそれぞれに挨拶を返して、さんはざっとコート内を見回す。

「流石だね」
「……何がすか?」
「こちらが下手をしなければ、君たちが案じることは何もないよ」
「いや、だから何が?」

 相変わらず要領を得ない言い回しは噛み合ってへん上に、光の問い掛けに全く答えてへん。
 せやから今度は俺も重ねて訊いたけど、さんにはその要領を得ない答以上のことを言うつもりはないらしい。軽く肩を竦めただけで話を終わらせてまう。
 いや、だからそのヘタがわからな、気を付けようもないんやけど……。
 まあ言うたところで教えてもらえへんのは今更やし、これが今まで散々見殺しにして来た言うさんがようやく踏み出せた、記念すべき一歩なんやから。こうして言うてもらえるだけ有り難く思て、責っ付くような真似はしたらあかん。出掛かった突っ込みを呑み込んで堪える。

「あー……それはそうと、さんがこっち来るなんて初めてちゃう? まさか転入生がまた何かしたん?」
「傍迷惑なことにね」

 言葉尻に欠伸を零したさんの目許にはうっすらと隈が見えた。
 いつもは朝練を終えて教室に行く俺らと同じくらいに登校しとるさんが、こんな早い今の時間にもうおることといい、あんまり寝てないんやろか。心配して声を掛けようしたけど、それよりも早く「先輩」光のが口を開いてまう。

「昨日の件で話があるんで、昼休みいいすか? 謙也さんたちも」
「お、おう」
「……わかった」

 昨日の件て、いろいろあって具体的にどれのことを指しとるのかわからんけど、転入生関連であることに間違いはない。
 どうせ断られることはないとわかっとるから白石とユウジには後で声を掛けるとして、俺は光の誘いに一も二もなく頷いた。
 ただ一つ、視線をあらぬ方向に向けたさんの間を置いた返事が、妙な不安を煽る。俺もそっちを見たけど、例の如く何も、敢えて挙げられるもんもない空中やし。ほんま堪忍してや。


 そして、世の中こういう悪い予感ばかり的中するもんや。


「あの……」


 今朝の出来事から一時間弱。
 朝練はとうに終わって、朝のSHRもたった今終わったタイミングに、その恐怖は突如として襲い掛かった。
 昨日までは散々、同じ空間にいるだけで悪寒がしてしゃーなかったし、実際SHRが終わるまでは確かにそやったのに。一切の気配もなく背後から掛けられた声に、ぶあっと一瞬にして、全身の身の毛がよだつ。氷付けにでもあったみたいに身体が硬直した。

 それでも、怖いもの見たさとでも言うんやろか。
 知るのは怖い。けど知らないままでおるのもまた怖い。そんな葛藤が過ぎりはしたけど、俺はぎこちなくも振り返った。

「ちょっと、いいかな?」

 小首を傾げる仕草は、他からすればさぞや可愛らしいもんに見えとるんやろう。
 動作に合わせて肩から零れた亜麻色の髪からここまで届いた甘い香りも、その魅力を高めているのかもしれへん。
 せやけど俺にはそんなん、本能が訴える恐怖の前では塵も同然やった。寧ろ得体の知れないもんに思えて、より恐怖を煽られる。喉が引き攣って声が出えへん。

 でもそんなこちらの都合は、転入生には関係あらへんかった。
 いやきっと、昨日聞いた“声”の内容みたいに、転入生にとって都合のええ勝手な解釈をされたんやろ。

「二人共、昨日テニスコートにいたよね? あの時は練習の邪魔をしてごめんなさい。あたし、前にいろいろあって。ようやくテニス部と関われるんだと思ったら興奮して、それを小石川くんに頭から否定されたものだから、ついムキになっちゃって……。本当に、ごめんなさい!」

 しおらしく、転入生は頭を下げる。
 距離的にそこまでの必要性がない声の大きさと、昨日に引き続く人垣の中心におった転入生がそこを抜け出してこっちに来とる注目度。そして、これは俺の考え過ぎやろか。小石川への悪意が見え隠れする言い回しに、教室内は俄かにざわめいた。
 何やら不穏な空気さえ感じて、焦った俺は見つけられもしないさんの姿を探した。
 ほんまに不思議な話、たとえすぐ目の前におったとしても、その存在を認識できるまで俺の目には透明にしか映らんさんは、滅多に席を立たん人やから。今回だって、後ろを向いとる俺の眼前にある席に座っとるはずや。けど何のアクションもない。
 代わりに動いたのは、欠片も望んでへん転入生の方やった。

「ここ、座ってもいい?」

 言うて、転入生はさんの席の椅子を引いた。
 そして何事もなく腰掛けてまう。

 驚愕して、俺は咄嗟に白石を見た。
 俺や転入生からは認識できひんだけで、傍からすればさんは間違いなく存在しとるんや。つまりさんが席におる場合、転入生は着席しとるさんを追い出して席を奪ったか、或いは知らずさんの膝の上に座ったことになるはず。
 そんなん、この注目の中ですれば周りから何かしらの反応があってもええとこやけど、そんな様子はあらへん。それは、つまり。

 俺の視線に気付いた白石の顔は正に蒼白やった。
 せやから俺の意図を察せられるほどの余裕があるのかは怪しくて、その首を縦と横のどっちにも動かしとるように見えるぐらい、身体を震わせとる。

「他のみんなとは一度ずつお話ししたんだけど、二人とはまだだったよね? 改めまして、神野愛子です。二人の名前、教えてもらってもいいかな?」

 その言葉が白々しく聞こえるのは、微笑みの裏にある本性を知ってるからか。
 大体、ネタやなく本気で、部員たちにも時々存在を忘れられるほど存在感に乏しい小石川の、名乗ってもない苗字は知っとるのに。小石川よりよっぽどキャラ立ちしとる俺らの名前を知らんとかないやろ。“声”で散々馴れ馴れしく呼んどったし。
 ちゅーか、昨日の件の謝罪について、こっちはまだ許すも何も言ってへんのやけど。自分が謝ったんやからもうこの話は終わったと言わんばかりに、遠慮も慎ましさもない。

 俺らが名乗るのを待っとるのか、転入生はわざとらしいくらい満面の笑みを浮かべて沈黙しとる。
 せやけど俺より酷い恐慌状態にある白石のお陰で、俺はこうして思考ではまだ冷静さを保てとるだけであって、身体の方は恐怖に硬直したままの状態や。

「おー、全員席に着きやー。授業始めるでー!」

 そん時やった。部活で聞き慣れた、さっきの転入生のわざとらしさとは違て元から無駄に大きい声が、場の空気を一変させた。
 弾かれたように前を見れば、無精髭に皺だらけの白衣と薔薇柄のチューリップハットっちゅー、ネタにもなり切らん姿が視界に入る。
 三十路近いおっさんがしても可愛くないどころか不気味なだけでしかない。一斉に集まった教室中の視線に教壇の上できょとんとしとる、俺ら男子テニス部顧問の渡邊オサムちゃんや。

「何やお前ら、人の顔を凝視して。何か付いて ――― ははーん! さてはあまりの男前振りに見惚れたか。いやー、中学生を誑かしてまうとは。我ながら罪な色男やなぁ」
「……寝言は寝て言うもんやで、オサムちゃん」

 相変わらずの惚けたボケに、今さっきまでの恐怖を忘れて思わず突っ込んでまう。大阪人としての性や。
 瞬間、どっと笑いが巻き起こる。あちこちから俺のツッコミに同意する声も上がって、ほんまに場の空気は様変わりした。

「大人の男の魅力言うんはな、中学生にはまだまだわからんもんなんや」
「それ、今さっき言うたことが矛盾しとるで」
「ん? そやったか?」

 いい加減っちゅーか闊達かったつっちゅーか、オサムちゃんはその大きな声でより喧しい笑い声を上げた。
 けどこんなんでも教師なだけはあって切り替えが早く、次には「それより授業始めんで、はよ着席しやー」と呼び掛けながら俺らへ行動を促すように手を叩いた。その途端、転入生に注目しとった連中が慌てて席に着いたり、教室後ろのロッカーへ教科書を取りに走ったりと、教室内は俄かに騒がしくなる。

 そんな中で一人だけ、その場を動こうとせんもんがおった。

「そこの別嬪さん、確か転入生やったか? 自分もはよ席に戻りや」

 出席簿と座席表と見比べたオサムちゃんが、図々しくもさんの席に居座り続けとる転入生に注意を促す。

「先生、この時間だけでもあたし、この席にいちゃダメですか?」
「ダメも何も、自分の席はそことちゃうやろ」
「あたし、冷え性なんです。だから廊下側のあの席はちょっと寒くって……」
「そうは言われてもなぁ。そんなんでいちいち席替え許しとったら他の生徒に示しがつかんし、今だけ席変わっても、そら根本的な解決にはならんやろ。それに寒いなら寒いで、膝掛けでも持ってくればええやないか? 冬になると女子はよう持って来とるやろ」
「――― え」

 今はもう背を向けとるから、オサムちゃんの返しに転入生がどんな顔をしとったのか、俺にはわからん。
 ただ何故か跳ねるような喜色が混じっとった声は一転、思わず零れたっちゅー感じのたった一音には、それでもありありとした驚愕が滲んどった。まるでオサムちゃんが否定的な言葉を返したことが意外とでも言うように。
 俺から言わせれば、一体どこに、自分の意見が肯定されるっちゅー根拠があったのかが不思議でならん。定番云々の件といい、どういう思考回路しとんのや。

「そもそも自分、その話を、今自分が座っとる席の持ち主に交渉したんか?」
「こ、交渉って……?」

 オサムちゃんの視線が少し横にずれる。窓側の方や。
 何で今このタイミングでそっちを見たのか、話の流れから瞬間的に察した俺は、振り返りたくなる衝動をぐっと堪えた。
 見たところで向こうからのアクションがない限りはどうせ認識できひんし、昨日言われたことにまだ許可が下りてへんのもある。それに今は、さんがちゃんと近くにおってくれとることがわかっただけで充分やった。それだけで充分心強い。まだ、大丈夫や。

「何や自分、いくら転入して来たばかりでもワガママ言うたらアカンで。先人の堂々たる佇まいと、何事にも動じひん肝っ玉を見習いや。……まあ、そこが玉に瑕でもあるけど」

 オサムちゃんが言う先人が誰かわかるから、内心思わず大いに納得してもうた。
 俺は転入当初のさんがどんなやったか知らんけど、初対面の頃の様子を思えば想像に難くない。……いや、オサムちゃんが言う佇まいと肝っ玉に関しては、今も全然変わっとらんか。

 さんの存在を認識できてへんどころか、そもそも“”と言う人物が存在しとること自体を知らん転入生は大きな戸惑いを抱えたまま、流石に分が悪いと踏んだんか大人しく自分の座席に戻ってった。
 そしてようやく授業が始まったんやけど、教室内には授業中っちゅー理由を差し引いたとしても、何や異様な沈黙が漂っとった。
 どうにも気に掛かって授業に集中できひん頭でその理由を考え、散々恐ろしくてしゃーなかった転入生の方を横目に窺う。そうして気付いた違和感に察した。

 昨日は転入して来たばかりの転入生を気遣っとったのか、それとも顔だけは綺麗な転入生とお近付きになりたい打算があったのか。
 あれこれ世話焼いとった周りが、さっきの冷え性云々の話を聞いとったはずなのに、全くの無反応 ――― 否。俺らと同じく、得体の知れないもんに対する恐怖を滲ませとることを。
030*130414