いつの間にか終わっとった昼休みに食いっぱぐれた弁当を、こんな時でも空く腹に押し込んどる内に終了した五時間目。
 具体的な対策は何一つ練れてへんし、できれば知りたなかった情報を知ってもうたしで、ほんまは戻りたないけどそういう訳にもいかんから。
 憂鬱な気分で教室に戻った俺と白石は、午前中に引き続きさんがおるっちゅー安心感だけで残りの六時間目を乗り切ると、SHRへの参加もそこそこに教室を飛び出した。

 や、やって! 隙を与えんように休み時間が終わる寸前に戻ってから授業中もずっと!! 転入生がこっち見とるんやぞ!!?
 存在自体が恐ろしいのにあんなん見つめられて、のんびりしてられるかっちゅー話や!!

「けど、これって何の解決にもなっとらんよな」

 そして当然のように一番手で到着した部室に転がり込んで一言、白石が零す。

「それを言うたら終いやん……!」
「せやかて! さんが聞いた“声”によれば、あの転入生て俺らのマネージャーになりたいんやろ!?」

 この行動が問題を先延ばしにしとるだけとはわかっとったけど、敢えて考えんようにしとったのに!
 そう恨めしさに呻けば、対する白石は悲痛に叫ぶ。折角のイケメンが台無しな面構えや。

 確かに白石が言う通り、俺らが転入生をマネージャーに指名するのが、転入生の言う王道ストーリーらしい。
 せやけど転入生が恐ろしくてしゃーない身としては、そんなん絶対に在り得へん上に、俺らには昼休みに屋上に集まる習慣なんかあらへんから、初っ端から転入生が言うストーリーは崩壊しとる。――― いや、きっと去年さんが転入して来た時から、筋書きから外れることは決まっとった。
 そもそもミーハーな女たちって、一体誰のことやねん。全く心当たりないで。

「テニスやテニスー!!!」

 暗い気持ちになりかけとったその時やった。部室の扉が荒々しく開き、俺らとは対照的にハツラツとした声が響く。
 不意打ちにビクついた俺らが振り向くと、恨めしいような心強いような生命力の塊 ――― 期待の超大型新人にしてゴンタクレの遠山金太郎が、きょとんとした顔でおった。どうやら向こうも向こうで、俺らがおることに驚いとるらしい。
 せやけどそれも一瞬のことで、金ちゃんはすぐさまパッと表情を輝かせる。

「シライシとケンヤやん! なあなあ、はよテニスしよテニス!!」
「――― ぐふっ!」

 持ち前の瞬発力で俺の腰に飛び付いた金ちゃんは、まるでお菓子売場で駄々をこねるちっさい子みたいに練習の相手を強請って来よる。
 けど自分の馬鹿力さ加減をいまいち自覚しとらん金ちゃんの所業に、俺の主に腰を襲った苦しみは半端なもんやない。特に今回は大好きなテニスを目の前にして興奮しとるからか、入部からのこの一週間で何度か味わった中でも断トツのダメージや。

「わかったから金ちゃん、一旦謙也から離れたり」
「いやや! はよテニスしたい!!」
「……金ちゃん?」

 音にするならニッコリ。でも目は全く笑っとらん白石が包帯を巻いとる左手を持ち上げる。
 すると金ちゃんがビクッと震えたのが身体から伝わって、一瞬も置かずに腰を締め付けとった細腕から解放された。あまりに唐突で咄嗟に力が入らず、危うくくずおれそうになったけど、傍らのロッカーに手を付くことでそない惨めな恰好だけはどうにか堪える。

「金ちゃんは人より力が強いんやから、ちゃんと加減せなあかんで。ええか?」
「……はい」
「よし。ほな謙也にごめんなさいは?」
「ごめんなさい……」

 自分らは親子かっちゅーくらいほのぼのしたやり取りの後、白石は「よく出来ました」言わんばかりに金ちゃんの頭を撫でた。
 そして俺に視線を投げ、顎をしゃくる。
 その扱いの差に釈然とせず、自分にはもう少し俺を労る気持ちはないんかと小一時間ほど問い詰めたいところやったけど、すっかり意気消沈してしょんぼりしとる金ちゃんの手前、そういう訳にもいかん。解放されただけでは治まらん腰の痛みを誤魔化して、無理矢理にでも笑みを貼り付ける。

「今度からは気を付けるんやで?」
「――― おうっ!!」

 力強い肯定と共にパッと表情を輝かせた金ちゃんの天真爛漫振りに、今度は自然な笑みが零れた。
 思わず目の前の、丁度ええ高さにある金ちゃんの頭を白石と入れ替わりで撫でる。……嗚呼、ええなぁ。今日一日で荒みまくった心が洗われる。癒されるわ。

 そう最初の内は大人しく撫でられとった金ちゃんやけど、その表情は徐々に陰り、やがて不安に彩られた。
 よく言えば天真爛漫な金ちゃんらしからぬっちゅーか、元気とイコールで結ばれとるような金ちゃんが見せた意外な表情に、思わず手が止まる。そのまま離れ掛けたのを、他でもない金ちゃんの手に遮られた。

「ケンヤ、何かあったん?」

 正直、驚いた。

 せやけど、思えば本能で生きとる言うても過言やない金ちゃんのことや。
 その勘でわずかな機微に気付くのは何もおかしなことやない。

 そんでもこの不安や恐怖はおいそれと語れるもんやないし、ましてやその相手が金ちゃんいうのも先輩としてのプライドが許さん。
 ちらりと窺った白石が静かに首を振っとるのを見て、やっぱり言うべきやない ――― 言えたもんやないと強く思た。転入生はひょっとしたら、ただの人間やないかもしれへん、なんて。

「金ちゃんが気にすることは何にもあらへんよ」
「……ほんまに?」
「ああ、ほんまや」

 無垢な瞳に真っ直ぐ見つめられて嘘をついたことに心苦しくはなったけど、かと言って明かす訳にはいかん。
 下手に言葉を並べて誤魔化せば本能的に察してまう気がする金ちゃんは、しばらくこちらをじっと見つめ、やがて掴んどった俺の手を解放した。

 そのタイミングを見計らったみたいに、部室には続々と部員たちが集まり出した。
 普段俺らより先に来てコートの準備なんかをしてくれとる後輩たちは、いつもならまだおらへんはずの俺らがおるのを知るとぎょっとして、慌ただしく準備に走り回る。そない焦らんでもええて声掛けはしたけど、何だか悪いことしてもうたな。転入生から逃げるのに必死でそこまで気が回らんかったわ。
 せめてもの償いに、俺らもさっさと着替えを済ませて、最初は勿論断られたけど、成長期前の身体にはなかなか重たい用具運びぐらいには協力させてもろた。併せて新入部員たちとのコミュニケーションを図る。俺らもつい二年前はこんな感じやったかと思うと、何や感慨深くなった。

 そうして自然と始まった部活やけど、一点だけ、目下どうしても気になることがあった。

「なぁ、ユウジ」

 基礎体力作りの走り込み中。
 いつもは先頭におるところやけど今日はちょいとスピードを落として、“一人で”走るユウジに併走する。
 ユウジは一瞬だけ俺に視線を寄越すと前を向いたまま「何や」ぶっきらぼうに先わ促す。

「オネェさんて、ユウジに憑いとるんやないんか?」
「人の体質に乗じて勝手に居着いとるだけや。別に憑かれとる訳やない」
「せやけどさんは」
「憑かれとる訳やない」

 ギッと今度は鋭い視線を寄越したユウジに、思わず口を噤む。
 けどまだ本題には触れとらんから、このまま黙っとることはできない。

「それはそれとして、何でオネェさんは文字通りの草葉の陰から、小春のことを凝視しとるん?」

 そう。基礎体力作りに走り込みしとる俺らとは別に、コート内で新入部員たちの指導に当たっとる部長副部長たちとおる小春を、オネェさんはコート脇の草陰に隠れて凝視しとった。
 別に隠れへんでも、幽霊のオネェさんの姿は力がなければ視れられるもんやないのに。
 ちゅーか、昼休みのさんとの要領を得ないやり取りで姿を消しときながら、部活には一緒に現れたから、てっきりまたユウジの側に憑いとるもんだとばかり思とったのに。実際オネェさんが一緒におったのは、同じクラスやし相方やしで連れ立って来とった小春の方やった。

「何でも何も、あれには端っから小春しか見えてへんのやから、当然やろ」
「? どういう意味や?」
が言うてた“彼”っちゅーんは小春のことや」
「……はい?」

 何を言われたのか、最初は理解できんかった。
 まあ、ほんまはノーマルなユウジをホモと誤解させるほどガチなオネェさんが、ユウジの身体を使てしてたことを考えれば、納得できひんこともない。
 けど、それやと昼休みにさんが言うてたこととは話が繋がらへん。

 突然のカミングアウトに困惑する俺を見て、原因のユウジは、それはそれは深いため息をついた。
026*130303