実は今朝より前、新学期が始まった頃からずっと妙な感じはしとったんすわ。
 学校におる時って、他のどこにおる時よりも喧しいもんが聞こえなくて静かなんすけど ――― ええ多分、先輩が言うてはった鳥居の内側におる効果やと思います。その話を聞いた後で近所の神社回ってみたら、場所によって程度の差はありましたけど、他より断然静かだったんで。
 けど、それって別に、完全に何も聞こえなくなる訳やないんすわ。
 ガヤの声になりきらへんざわめきが消えるだけで、そういう雑音が消える分、寧ろよう“声”が聞こえるようになるっちゅーか。ちゃんとした言葉になっとる声とか、言葉になってなくても強い念のこもった声なんかは、どうしても聞こえて来るんす。――― いや、別に同情してくれんでもええですて。前にも言いましたけど、物心が付く前から聞こえて当たり前なんで。ええ加減慣れましたわ。

 でも新学期が始まってから急に、そういう“声”すらもよう聞こえへんようなる時があったんすわ。
 まるで何かに阻害されとるみたいに。聞こえても途切れ途切れやったり、こもっとったりして、何を言うとるのか判然とせぇへんことが、時々。
 そしたら今朝になって、謙也さんが転入生の存在を全く認識してへんかったっちゅーやないすか。

 その時、直感しましたわ。ここ一週間の違和感はこの前兆やったんやて。

 穿った見方かもしれませんけど、変化があった新学期の開始と謙也さんに認識されてへん転入生の話が出たんが同時期やったんすよ。他に発端になりそうなことには、これといって心当たりありませんし。何より、先輩が問題の転入生のことを「良いか悪いかで言えばわからない」とか曖昧なこと言いはるし……。
 先輩て基本、いろんな意味で曖昧な人っすけど、こういう件に関しては良くも悪くも白黒はっきりした人やから、これはかなりヤバいんやと思いましたわ。
 白石部長と謙也さんには悪いっすけど、せやから転入生が来た先輩らのクラスにも転入生本人にも、絶対に近付かんようにしようて誓ったんすけど……。

 ……今朝先輩にメールもろて、ほんまは四時間目が終わったらすぐここに来るつもりやったんすけど、その授業が長引いてしもて。
 終わってすぐに教室出て、急いで階段上っとったら、声を掛けられたんすわ。

 そこからのことは正直、よう憶えてません。
 前に謙也さんを襲ったワンピースの女の“声”が今までで一番強烈で狂っとった言いましたけど、あんなん目やない異常な“声”に訳がわからんようなって、気付いたら先輩に抱き締められとったんで。一体何があったんか、逆にこっちが聞きたいくらいすわ。


 あれからしばらくして落ち着きを取り戻し、渋々とやけどさんから離れた光は、自分の身に起こった顛末を語った。そして自分を救い、ここまで連れて来てくれたさんに詳しい説明を求める。
 それは俺らかて知りたいことやから、必然的に俺らの視線は光と同じようにさんへ向かう。
 ところがさんは、そんな俺らの気持ちを意に介した様子もなく、暢気に弁当を広げとった。その態度に若干イラッとせぇへんこともなかったけど、それでこそのさんやし、何や脱力してまう。

 出汁巻き卵を口に放り込んださんは咀嚼しながら、軽く肩を竦めた。

「別に大したことはしてないよ。アレの意識を君から逸らした隙に君の手を握って、ここまで連れて来ただけ」

 出汁巻き卵を飲み込んでから、さんは事も無げに言う。
 せやけどさんが光の手を握った必要性とその意味を、身を持ってしっとるこっちからしたら、簡単には聞き流せへん話や。

「アレは一体何や?」

 言葉にするのを躊躇っとった核心を突いたのはオネェさんやった。
 しかも、いつもは絶対に近付こうとはせぇへんさんに机越しで迫りながらや。

「……残念だけど、わたしはその答を持ち得ない」
「何やて?」
「わたしにもアレが何か断ずることはできない。ただ一つ確かなのは、アレは本来、存在し得ないモノだということだけ」
「存在し得ない、もの……?」

 どういう意味やろ?
 ようわからんけど、転入生がさんにも“何”と断言できひん得体の知れんもんちゅーことは、十二分に理解した。
 それさえわかれば今は充分や。

「――― と、言うか」

 せやのにさんが自ら口を開くから、俺の心は身体ごと硬直する。
 まだ話は続いとったのか、それとも今度は別の何を言われるのか。反射的に身構えてさんを見れば、さんの視線は深刻そうな顔で沈黙しとるオネェさんに向いとった。

「そんな質問をする前に、アナタには他にできることがあったと思うけど」
「……何のことや」
「解ってる癖に。わたしに言えた義理じゃないけど、本当に“彼”を護りたいと思っているのなら、アナタはここにいるべきじゃない。アナタの行動はただ傷を増やすだけで、免罪符には成り得ないよ」

 いや、とさんは言葉を続ける。

「そもそも取り憑くという行為自体がアナタの間違いだった。霊になっても元は人間だもの。アナタの本心がどこにあろうと、いつかは情が湧き、情は未練となって、ますますアナタを現世うつしよへと縛り付ける。だから、アナタは選ばなくちゃいけない」
「……」
「本懐を遂げるのか、それともどちらかを見捨てるのか ――― どちらも見捨てるのか

 光が言ういろんな意味で曖昧なさんの言葉は抽象的で、言葉を向けられとる当事者以外には要領を得んもんやった。
 けど、全くわからん訳やない。
 今当事者になっとるオネェさんが取り憑いとるのはユウジなんやから、つまりさんは、オネェさんがユウジに取り憑いたことがそもそもの間違いやったちゅーとる。ただオネェさんの本心や本懐、挙げられた二択が何を指しとるのかがわからん。

 でもユウジに取り憑いとることを挙げた上での話なんやから、少なくとも二択の一方はユウジのこと、か?
 せやったら、もう一方は?
 ユウジに憑いたことで情が湧いて、それがオネェさんのしがらみになっとるっちゅーなら、その本心や本懐はユウジに関することとは別のところにあるんか?
 それなら、何でオネェさんはユウジに取り憑いとる?

 疑問は次々湧いて切りがあらへん。
 その時、さんを一方的に睨み付けとったはずのユウジの身体が、突然背を向けた。

「おい待たんかコラ!!」

 そして、あらぬ方向に向こて怒鳴り声を上げる。
 すぐさま反射的に視線を追うたけど、やっぱりそこには何もあらへん。けど見慣れた顰めっ面で「チッ! ほんま逃げ足の速い奴や」と吐き捨てる姿に、何となく予測はできた。

「ユウジ、やんな……?」
「ああ? 当たり前やろ、あんなオカマと一緒にすんな。死なすど」
「スンマセン」

 これも慣れた常套句やけど、いつもと違て低く唸るように言われると現実味が増して、洒落にならへん。条件反射的に謝罪を入れると、主導権を取り戻したユウジはもう一度舌打ちして、身体は今一度さんに向き直る。
 その影で光が「謙也さんてほんまにヘタレっすね」て茶化しとる声なんて、俺には聞こえへん。聞こえてへんわ。

「今の話、どういう意味や」
「どうもこうも、君だって気付いてるんでしょう」
「……そうやないかっちゅー程度のもんや。確証がある訳やない」
「でも、今確信した。……でしょ?」

 さんの問いにユウジはますます顔を顰めて沈黙を返す。
 肯定を意味した反応やけど、その内容は相変わらず外野には要領を得ん。

「一応言っておくけど、ゆーじは何も選んではいないよ。敢えて言えば、四つ目の選択をした」
「――― ! 四つ目の、選択……?」
「自分の手に余るどころか、抱えることすらできないとわかっているのにね。それでも何とかできないかって、今はアレのところにいる。とは言っても、アレが強烈過ぎて下手に干渉すれば逆に消され兼ねないから、遠目に睨み付けるくらいしかできていないけど」

 そう言うさんの視線はさっきユウジが見たのとは別のあらぬ方向に向いとる。
 今までの経験から察するに、壁も床も天井も無視したその視線の先にオネェさんとアレ ――― 転入生がおるんやろう。
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