あれから、いつまで経っても減る気配があらへん休み時間毎の人だかりのバリケードと、さんがおるっちゅー絶対的な安心感で授業を乗り切った午前中。 ようやっと迎えた昼休みに、つい気が緩んだのがあかんかった。 弁当箱を取り出して、立ち上がりながら右斜め後ろの白石を振り返ろうとした視界に、今朝の紹介時以来とんと見えてへんかった転入生の姿が映った。 途端に、身体が硬直する。 今日まで勿体つけられたことや容姿を理由にしても、絶えず囲まれて初日から異様なほど人気者になっとるだけに、昼飯でも誘われとるのか、転入生は弁当箱を持った女子数人に声を掛けられとった。せやけど申し訳なさそうな顔しとる様子からして、断っとるように見受けられる。 そして残念そうにした女子がその場を離れるなり ――― 転入生の視線が、こちらを振り向いた。 瞬間、俺の身体は頭よりも先に反応しとった。 まるで同極の磁石を近付けられたみたいに、転入生が振り向くのに反発して顔を背ける。かと言って、硬直が解けた訳やない。ガチガチや。 結果的に目的やった白石の方を見ることになった視界では、今までで一番蒼褪めた顔した白石がカタカタと震えとる。 そして俺もまた、徐々に、段々と、何とは言い切れへん“何か”が近付いて来とる感覚に、歯がカチカチ鳴った。 今この気持ちを表すなら恐怖以外には在り得へん。それだけがはっきりしとって、それ以外は何一つもわからん。 今度こそ死んでまうと、そう思た。 「行くよ」 「ちょっとコンビニに行って来るわー」くらい軽い調子のたった一言や。 けど、その一言は俺には何よりも有り難い救いの言葉やった。白石にとってもきっと。 それをきっかけに、今まで全く耳に入って来んかった昼休みの喧噪が、音の洪水になって襲い掛かる。 同時に硬直から完全に解放された俺は、視界の端を掠めた人影を反射的に追った。同じように慌ただしい物音が後ろに続いて、すぐに白石が隣へ並ぶ。 教室を出る時、どうしても気になって窺った俺らの席の近くには、弁当箱を持った転入生の姿があった。 そこから予想された、あと少しさんの呼び掛けが遅かったら起こっとった事態に、俺は背筋がぞっとした。 「遅い!!」 視聴覚室に着くと、もう既に来とったユウジ ――― いや、オネェさんの怒号が第一声で飛んだ。 よう聞くユウジのそれとはちゃう気迫っちゅーか威圧感っちゅーか、目には見えへん圧力がこもったそれに俺も白石も肩が跳ねたけど、さんがため息をついた途端にふっと軽くなる。 「一時間目からここにこもってたアナタより先に来られる訳がないよ」 「そういう意味ちゃうわ! 大体あないな意味わからん環境に、この子を置いとける訳がないやろ!!」 「アナタの気持ちは買うけど、あまり度が過ぎると彼の身にならないよ。今回のやり方だと、主に学業の面でね」 さんはまた一つため息して、俺らに座るよう促す。 別に示し合わせとる訳やないけど、さんが弁当箱を置いた席を軸に、白石と俺は教室と同じ隣と前の席にそれぞれ腰を下ろした。せやけど何故か、人に座るよう言うたさん本人は席に着こうとはせんで、入って来たばっかの出入口の方に足を向けとる。 「さん?」 「ど、どこに行くん?」 「君たちに話すならと思って後輩くんも呼んだんだけど、ここに来る途中でアレに捕まったみたいだから、行って回収して来る」 また「コンビニ行って来るわー」ぐらいの軽さやった。 念のため鍵を掛けとくように言い置くと、さんは視聴覚室を出て行った。 沈黙が場を支配する。 「ま、まあ、さんが直接行ったんやから、だっ大丈夫やろ」 「せ、せやな!」 「……油断は禁物やで」 席を立ったオネェさんがさんの言い付けを珍しく素直に聞いて部屋に鍵を掛け、重苦しく言うた。 「あの嬢ちゃんも訳わからんけど、今回のアレも同じくらい訳わからんからな。何があってもおかしくないで」 「それって、あの転入生のこと、やんな……?」 「他に一体何があんねん」 「せ、せやな……」 「まさか自分ら、同じ教室におって何も感じひんかった訳とちゃうやろ?」 俺の隣で白石の前席の机に腰を下ろしてオネェさんは訊いて来る。 最初に自分でオネェさん呼べ言うて来ただけに、男ながら女性っぽい仕種をしよるオネェさんやけど、今日のその所作には寧ろ男性的な荒々しさが出とった。 開いた足を椅子に乗せて座り、立てた右膝に顎を乗せて俺らを睥睨する。 「……感じた。けど“何か”はわからん。ただ目が合うた瞬間、捕らわれると思た」 「捕らわれる?」 「せや。何ちゅーか、底のない沼に嵌まってくみたいな……」 そう陥りかけた時は気付かんかったけど、さんのお陰で踏み止まり、あの時を振り返られる状態にあるからこそわかる。あれは水とかそんな無色の綺麗なもんやない。どろどろに淀んだ沼や。 もがいてももがかんでも、ほんの爪先が乗っただけでも捕らわれて、逃げ出せへん。そんな恐ろしい沼。 「俺は上手く言えへんのやけど、ただ漠然とした恐怖感があって、とてもやないけど転入生の方を見られんかった。見たら最後、終いやって、そう思て……」 その恐怖感を思い出したんか、白石はぶるっと身体を震わせた。 そんな白石の背後には未だに女の姿が一切見当たらへん。転入生が現れた瞬間に競るまでもなく消されたてさんは言うてたけど、その状態が今も継続されとるっちゅーことが、転入生の強烈さ物語っとる。具体的にどう強烈なんかは、よう言われへんけど。 俺らの話を聞いたオネェさんは険しい表情で沈黙して、何か考え込んどるようやった。 自然とそのまま会話のない時間がどれくらい経った頃やろか。五分もなかった気ぃするし、十分以上経っとったかもしれへん。オネェさんが鍵を掛けた戸が叩かれた。 「開けてくれる?」 さんや! すぐさま駆け付けて鍵を開けると、間もなく戸がスライドする。 戻ったさんは回収して来る言うてた光を連れとった。せやけどさんに手を繋がれとるっちゅーか、さんに手を掴まれとる言うた方が正しい光の様子は、無事とは言い難い。蒼褪めて小刻み震えて、精気を抜かれたみたいにやつれとる。その目は虚ろや。 光の手を引いて中に入ったさんは手早く施錠を済ますと、光を手近な席に座らせた。 「な、何があったん? 財前は大丈夫なんか?!」 「耳に五月蝿い虚言に当てられて参ってるだけだよ。……ちょっと、放して欲しいんだけど」 白石の心配へ冷静に答えて、さんは光と繋いだ手は離そうとする。けど虚ろな光がそれに応えることはなく、そんでもさんは光の手を無理に剥がそうとはせずに、ただ一つため息した。 かと思えば、さんは自由な右手を徐に上げ、光の頭をその腕の中に抱え込んだ。 さんの思わぬ行動に俺も白石も、オネェさんまでもがぎょっとする。 「…………先輩?」 けど驚きの理由は、さんの腕の中から聞こえたくぐもった声へすぐに差し替わった。 「先輩、何しとるんすか?」 「君の耳を塞いでる」 「耳? ……ああ、せやから先輩の心臓の音しかしないんすね」 感嘆か感動か、いつものつんけんした態度からは信じられへん、初めて聞く穏やかな声で光は呟く。 すると光もまた徐に空いとる手を上げると、今度はさんに応えた。 「こんなに静かなの、生まれて初めてっすわ」 座っとる光と立っとるさんの高さの違いから、背中っちゅーよりはさんの腰に腕を回した光はさんの身体を引き寄せると、その鳩尾辺りに顔を埋めた。しかも甘えるように顔を擦り寄せるオマケ付きや。 俺が知っとる光からは到底想像も付かん姿に、これもあの転入生の影響なんかと思うと、転入生に対して今までとは別の恐怖を覚えた。 022*130120
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