今朝の三年二組の教室は、本来あるべき外と同じ喧噪が遠いもんやった。
 それは多分、小石川に心配されて一足先に朝練を切り上げた俺らが教室へ駆け込んだ様子に、ほとんど登校しとった同級がただならぬもんを感じ取ったからやと思う。
 この一週間、今までになく全く無事に過ごせとった油断も、理由の一つやろ。今度は何があったんかと、巻き込まれたないから遠巻きにしながらも興味や好奇心をそこそこに、傍観態勢に入っとんのが窺えた。特に去年一組やった連中に関しては、並々ならぬ怯えと警戒が見て取れる。

 そして、運命の時。

 チャイムから間もなく教室にやって来た担任は、教室の異様な空気にすぐさま気付くと、反射とも言える動作で俺らの方に目を向けた。
 いや、確かに原因は俺らやけど。そう何の躊躇もなく断定されて疑われるとか、流石に傷付くっちゅー話や。
 せやけど担任が視線をくれたんはほんの一瞬だけで、自分が今入って来た戸の方を見やって何かに納得したようやった。

 今朝白石が言うてたことがほんまなら、今の担任の動作と合わせ考えて、恐らくはあの戸の向こうに、おるんやと思う。
 透視能力とかは持ってへんけど、あれから主に生死に関わるいろんな経験して、さんが言う能力値の範囲内なら、そういうんを感じ取れるくらいには鋭い自覚はあるさかい。透かし見る気持ちで戸を凝視する。けど、何ちゅーたらええんやろ。確かに何かがおるような、おらんような。能力値の境界を行ったり来たりしとるみたいに、全く掴み所があらへん。
 故に、底知れへん恐怖を感じた。俄かに緊張した身体が強張る。

さんが「良いか悪いかで言えばわからない」言うてたんは、こういうことか)

 教室に駆け込んで縋った今朝、曖昧さが常ちゅーても、いつになく不明瞭やったさんの態度の理由が、今ならわかる。
 そしてさんに全容を掴ません存在が、ますます恐ろしなった。

「もう気付いとるとは思うけど、前に話しとった通り、今日からこのクラスに新しい仲間が増えます」

 教室の異様さをどうやら噂の転入生がようやっと登校して来る期待や昂揚と解釈したらしい担任の言葉に、教室内の空気が一瞬にして払拭されてざわつく。
 こっちはこっちで、転入生の話を失念しとったのが窺える。……そうさせた原因やけども。

「せんせー! 男と女どっちなん?」
「それは見てのお楽しみ。……自分ら、魂抜かれんように気を付けや

 何や最後に不吉なことを言うた担任の合図で、戸が開く。

 現れたんは、一言で言えば美少女。
 すっと通った鼻筋に鈴を張ったような目。ぷっくりした唇は瑞々しく、自然な色合いをしとる亜麻色の髪はふんわり結い上げられとって、体型はスレンダーで身長は同年の女子に比べてやや高め。
 街中で擦れ違えば十人が十人振り返る。掛け値なしの美少女やった。
 白石も綺麗な顔しとるけど、それでもやっぱり男の白石にはない、洗練された女らしい綺麗さが感じられた。

 せやのに。言い得て妙やった担任の言葉通り、まるで魂が抜かれてもうたみたいに男女関係なく見蕩れとるみんなと同じく、俺には素直に魅入ることが出来ひん。寧ろ凝視した。
 戸を挟んどった時からある底知れへん恐怖が、より底を深めたような。
 太陽も月も星も灯りもない、真っ暗闇に突き落とされたような。

 教壇に立って教室全体を見回した転入生と目が合い、微笑まれた瞬間、言い知れへん“何か”に捕らわれる。

「忍足謙也」

 ――― ところを、唯一絶対の安心を与えてくれる声が、未だに君呼びされとる俺の名前を呼んだ。
 はっとすると同時に肩が跳ねて、咄嗟に振り返る。

「振り返らないで」

 が、寸前で制止されて思い止まった。

「そのまま、アレから視線を外して。絶対に目を合わせないように」

 さんの指示に従い、俺は俯いた。
 せやけどさんに言われるまでもなく、転入生とはもう二度と、目を合わせたない。

 怖かった。何がと訊かれても答えられへんけど。兎に角、怖かった。
 その恐怖を示すように俺の身体は小刻みに震えとって、激しい運動の後みたいに喧しい心臓が耳元で騒いどる。背中も、学ランの下でワイシャツが貼り付いて気持ち悪い。

「ほな、空いとる席に座ってや」
「はい」

 そうこうしとる内に、転入生の紹介は終わってもうたらしい。
 担任の指示に返事する声は高くもなければ低くもない耳に心地ええもんやったけど、反して背筋はぞっとする。

「って、どこ行くん? 自分の席はあっちやで」
「えっ? でも……」

 その声が、さっきよりも気持ち近いとこからした。
 恐る恐る顔を上げて転入生の目を見いひんように窺えば、教壇を降りた転入生は窓側二列の間 ――― 俺とさんがおる座席列と白石がおる座席列の間の通路におって、俺は心臓が止まるかと思た。勿論悪い意味でや。

 せやけど担任が言うた通り、こっちに転入生が座れる空席はあらへん。
 この一週間、転入生の話を認識してへんかった俺には不思議でしゃーなかった謎の空席は、こっちとは反対の廊下側最後尾にあるんやから。
 今日は欠席者がおらんし、空いとる席言うたらそこしかあらへんのやけど。転入生が何でこっちに来たんか、意味がわからへん。

(……あれ?)

 いや、ちょい待ち。
 空いとる席に座れ言われてこっちに来たっちゅーことは、転入生の目にはこっちに空いとる席が見えたっちゅーことで。
 おった位置からして、それは窓側二列のどこかやと推測できる。せやけど今も言うた通り、今日このクラスに欠席者はおらへん。つまり、空いとる席は廊下側の一つだけや。

 ――― まさか、さんの存在を認識できてへん場合を除いて。

 その話を俺が全く認識できてへんかったことといい、気付いてもうた可能性に、どっと冷や汗が噴き出す。
 時間が止まってもうたような心地やった。けど実際には在り得へんことやから、俺を置いて周りは動き続ける。

「息、しないと死んじゃうよ」
「――― っ」

 はっと、いつの間にか無意識に止めとった呼吸を再開する。
 待ちに待った転入生、それも物凄い美少女の登場に落ち着かへん空気を読んだんか、SHR終了のチャイムが鳴る前に担任が退室した教室は、廊下側最後尾を中心にそれこそ異様な盛り上がりを見せとった。
 こうして自席に着いたままのこっちが異質と思えるくらいや。かと言って、あの輪に加わる気には全くなれへん。

、さん……」
「……なに?」
「もう、振り返ったっても、ええ?」

 さんが言うことには必ず、何かしらの意味があるもんやから。
 ほんまは今すぐ振り返ってさんに縋りたいとこやけど、動く前に確認を取る。

「絶対に“わたし”へ視線を向けず、部長くんと二人で会話している体でならね」
「わ、わかった。白石、ええか?」
「……了解」

 絞り出すみたいな掠れた白石の声に、自分のことに手一杯やった俺は、そういえば白石は無事やったんかと今更思い当たった。
 万が一にも転入生と目が合わんように気を付けて。さんに言われた通り、白石に話し掛ける体で斜め後ろを振り返る。――― そこで、息を呑んだ。

 一体どういうことかと、さんに問い質したい気持ちを必死に堪えて、若干顔色が悪い白石に視線を固定する。
 いつもなら、その背後には俺に視える限界の四人の女を最低でもくっつけとる白石やのに。今朝までは、確かにそやったのに。今の白石の背後には、一人の女の姿も見当たらんかった。

「な、んで……?」
「それだけアレが凄まじいから。アレが教室に入って来た瞬間、競るまでもなく一瞬で消されたよ」

 曖昧やなく苦々しげなさんの口調から、白石に憑いとる死霊より多いっちゅー生霊たちは、あまりよくない形で白石から引き剥がされてもうたことが予想できた。
 自覚があらへん白石に説明すると、白石は驚きに目を丸くした間もなく、怪訝に眉を顰める。

「何も憑いてへん割には、ごっつ気分悪いし怠いんやけど……」
「それも、アレが凄まじいから。君の感情に作用されないくらい、強烈にね」
「……ちゅうと?」
「君、本能的に何か感じたのか俯いてたけど、まともに見てたらイっちゃってた」
「……」

 どこに、とは。恐ろし過ぎてとても訊かれんかった。
 ただ決して楽でも天国でもあらへん、寧ろ正反対の境地やと言うことは。これまでの経験とか関係なしに、それこそ本能的に察した。
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