「……わたしが自分の力を本当の意味で自覚したのは、三歳の時だった」

 そんな白石の力強さから逃げるみたいに、さんは目を伏せた。

「当時住んでいた家の近くに結構大きな交差点があってね。そこには、結婚の約束をしていた相手に手酷く裏切られて捨てられ、ある時その交差点で元婚約者とお腹を膨らませたその妻を目撃して、二人に呪いの言葉を叫びながら目の前で死んで見せた女性の霊が居着いていた。自分が身を投げた時と同じ大型トラックが来た時にだけ車道に飛び出して事故を再現する以外、本当にただ、そこにいるだけの霊だった」

 そして語られる話に、俺は妙な既視感を覚えた。
 口調から考えて間違いなくさんの過去話。体験談のはずやのに、何故か知っとると思ったんや。

「母親と買い物に出掛けた帰り道だった。いつもは信号待ちをする人の最前列にいる彼女が、同じように信号待ちをする女の人の背後に立ってた。今でこそあの時の彼女が強い嫉妬や憎悪、怨嗟に囚われていたのがわかるけど、当時幼かったわたしにはただ嫌な予感だけがしてた。だから咄嗟に、叫んだの」

 ――― あぶないっ!!!

 さっき夢で聞いた、若干舌足らずで幼い、せやけど幼さに似合わん焦燥感に満ちた、どこかで聞いたことのある気がする声が蘇る。
 瞬間、既視感の正体がはっきり形になった。あ、と思わず声が出る。
 訝しげな視線が集まった気ぃしたけど、さんを凝視しとった俺には、俺の推測を察したみたいに曖昧に、せやけど苦く泣きそうに笑たさんの反応しかはっきりせんかった。

「女の人は結婚を間近に控え、幸せの絶頂にあった。交差点にいたのは、式の打ち合わせに婚約者との待ち合わせ場所へ向かうため」

 後はもう、実際に“視た”俺やなくとも察しのつく結末やった。

「彼女が死んだ時と同じように大型トラックが交差点に差し掛かって、条件が重なったのも悪かった。わたしは母親に抱き締められて咄嗟に視界を塞がれたけど、でも、何もかも最初から視えてた」

 ドンッと鈍く、生々しい衝突音。
 けたたましいクラクションや、急ブレーキのスキール音。
 悲鳴、ざわめき、叫び声。

 あの断片的な情報からでも想像に難くあらへん惨たらしい光景を、わずか三歳の子供が視とった?
 視ん方がええと、どういう方法か俺が視界を塞がれたほどのもんを?

「そして彼女の呪詛が聞こえた瞬間、わたしはすべてを悟ったの。物心がつく前から当たり前に在ったものたちの本質を。自分がどれほどの力を持ち、だけど如何に無力かを」

 その事実がほんまに意味することを知るんも理解するんも、俺には、俺らには出来ひん。
 想像するのもおこがましい。

「わたしはね、諦めたの。何もかも最初から、全部。手を尽くすどころか何一つせずに、すべて……」

 最後の方は掠れて、震えとった。
 重苦しい沈黙が流れる。

 さんにどう言葉を掛けたらええのか、俺にはさっぱりわからんかった。
 話を聞いとる限り、いろんな障害や問題を差し引けば、ほんまのところ霊的事象においてさんに出来ひんことは何にもないように思う。
 けどさんは出来ひんことが何もないからこそ何も出来ず、一見万能にも思える絶対的な能力を持っとるからこそ、何もかもを諦めた。その能力故に、自分に出来ることと、力を使た結果の全てを知ってしまえるから。絶望してもうたんや。

 そんなさんに、一体何が言えるっちゅーんか。
 自分を悪にしたがる言葉への否定も、ほんまは見殺しにしようとした言うても結果的には助けてもろたお礼も、言えることは言い尽くしとる。
 これ以上何を言えば、今度は俺がさんを救えるのか。

(――― あ)

 あった。まだ一つだけ言うてへん。
 過去の否定と現在へのお礼と、そして。

さん。俺、さんに約束するで」
「約、束……?」
「せや。さんの見立てやと、俺は今までよう無事でいられたっちゅーくらい、碌でもないもんに限って好かれる性質持ちなんやろ?」
「そう、だね。更に言えば、他人の気に触れることで同調し、下手をすれば先に精神から死に兼ねない危険性も持ち合わせてるけど」
「……。と、兎に角!」

 今、相も変わらず恐ろしいことをさんはさらっと言いよったけど、その新情報は一旦脇に置いとくとしてや。

「俺はヨボヨボの爺さんまで生きて、老衰で死んだる。絶対に、幽霊に殺されたりはせぇへん。約束や!」
「……せやな。俺も、時には躓いたり挫けたり、さんが言うマイナスの感情に捕らわれてまうことがあるかもしれへん。けど絶対に、飲み込まれはせぇへんて約束する」
「ああ。いくら無様で醜くても、足掻いて、抗って、生き抜いたるで」
「そして最期はさんに会いに行って言うたるんや。“どや、さんに繋いでもろた命を全うしたったで!”てな」
「ええな、それ。――― あ、せやけど死んでもうたら、さんのこと認識できなくなるんとちゃうか?」
「そこは気合いや、気合い。人間死ぬ気になれば出来ひんことはあらへん」
「いや、死ぬ気も何も、その時点ではもう死んどるっちゅー話や」

 俺の言葉に意図を察してくれたんか、白石が言葉を重ねて同意してくれる。
 そこからつい掛け合いみたいになってもうたけど、俺らは本気や。真面目に言うとる。

 それがちゃんと伝わっとるのか不安になってさんを窺えば、さんは呆けたみたいに目を丸くしとった。
 そして音にするならくしゃりと、ほんまは泣きたいのを堪えて無理に笑たみたいに、表情を歪める。

「本当に、君は……君たちは、ずるいね。さっきまで不安定で頼りなかったのが、今じゃ精神力に溢れてるんだから」

 そないな顔を隠すみたいに、さんはまた目を伏せて、そのまま俯いた。
 ただ、今度のは逃げやない。それがわかる。

「これじゃあ……そんな、馬鹿みたいな幻想、慰めや同情なんかじゃなく、本気で、言ってるんだって……、疑いようがないじゃない」

 何故なら膝の上で固く組まれて震えとるさんの手が、ポツポツと静かに濡れとったから。
 瞬間、ようやくこの気持ちがさんに届いたんやとわかって、俺は熱なる目の奥を隠した。
017*121205