さんが君“たち”言うたように、カーテンが更に開かれて視界が広がった先には、俺以外に白石と光の姿があった。
 一体いつからおったんか知らんけど、まず間違いなくあのむせび泣きを聞かれてたんかと思うと、いくら体裁を気にする余地がなかった言うても、流石に恥ずかしゅうなる。
 せやけどそれ以上に、震えた声で「謙也さんが無事でほんまによかった」と何度も繰り返す光への申し訳なさと、あの黒くて真っ暗なおどろおどろしいもんが影も形もなく消えて五体満足でおる白石への安堵と、生きて二人とこうしてまた会えて話しができとる喜びと。とにかく、恥ずかしさ以上の感情のがずっと上回った。
 思わずまた、涙が込み上げる。

 そんな俺らが落ち着くのを待っとってくれたさんは、俺がおるベッドの周りにそれぞれ陣取った俺らを順に見回した後、保健室と廊下を繋ぐ戸に視線を向けた。
 釣られてそっちを見た俺は、不思議な感覚に首を傾げる。

「そんなところで立ち聞きするくらいなら入って来たら? わたしには、アナタにも彼にも何かする気なんて微塵もないから、警戒しなくていいよ」

 それからしばらく沈黙が流れて、戸の向こうで何かが動いた気がした。
 直後にノックもなく戸が開いて現れたのは、眉間に皺を刻んだ珍しくもない顰めっ面に、上手くは言えへん珍しい色を乗せたユウジやった。
 そして俺はユウジのその姿を一目見た瞬間に、直感する。コレはユウジであってユウジやない。ユウジの身体に取り憑いとるオネェさんや、と。それも何故か、オネェさんはさん自身が自分で言うた通り、さんに対して酷く警戒をしとるようやった。

「……自分、何もんや?」
「そう焦らなくても、ちゃんと説明するよ。取り敢えず、立ち話もなんだから座ったら?」

 ユウジの姿をしたオネェさんは探るようにさんをじっと見つめた後、出入口を一度確認して、俺らから離れた処置用の長椅子に腰を下ろした。
 そんなオネェさんの態度をさんは気にした様子もなく、さて、と俺に向き直る。

「話の前に軽く状況を説明すると、今はお昼過ぎ。いつもなら五時間目の真っ最中だけど、今日はもうわたしたちを除いた全校生徒が下校してる」
「えっ、な、なしてや?」
「立て続けに起こった怪奇現象で二年一組の教室はめちゃくちゃ。授業中だったために図らずも居合わせたクラスの人間は皆一様にこれを体験し、剰えその影響であの場は一時的に“そういう場所”になってた。視え方に個人差はあるけど、それでも誰もが突如現れた血塗れの女と、その女に君が襲われ殺されようとしていた場面を目撃した。……そんな後で、授業なんて続けられると思う?」

 さんの言うことは尤もやったけど、淡々として調子で言われると、別の含みを感じて怖なる。

 更に詳しく話を聞くと、俺が机の角に突っ込んで気を失ったすぐ後にチャイムが鳴って、そこでようやく、あの騒ぎは外部へ明るみになったらしい。
 あんだけの阿鼻叫喚が薄壁を挟んだすぐ隣の教室にすら伝わってなかったことは驚きやけど、ああいう事象なだけに、逆にそういうもんなんやと納得もできた。俺が生きるか死ぬかの追い掛けっこをさせられた時かて、辺りは不自然なくらいの静寂に包まれ、生き物の気配が全くあらへんかったし。
 ちなみに完全下校やのにさんらがまだ残っとんのは、騒動の中心として事情聴取されとったのがほんまについさっき解放されたからで。先生らはそのまま職員会議を開いとるらしい。せやから養護教諭も席を外しとるんやと。

「現状については、これくらいかな」

 一息入れて、さんはオネェさんに目を向ける。

「それじゃあ本題だけど、何から話したものか……」
「ほなら最初の質問に答えや」
「ああ、そうだね。わたしが何ものか、か。…………人間だよ。子も呆れるくらい仲睦まじい放任主義の両親の間に生まれ、老い、いずれは死ぬ。ただの人間」
「ほざけ。ただの人間が何で ―――」
「霊体時のアナタの視界に映らず、声が聞こえないのか……でしょ?」

 攫われた言葉が図星やったんか、口を噤んだオネェさんはますます警戒を強める。
 その所為なんかはわからんけど、途端に俺は背筋がぞっとした。ベッド脇に椅子を運んで座っとる白石も視界の端で肩を揺らす。他にもカタカタと、不自然な物音があちこちから上がった。

「無駄だよ。アナタにわたしを脅かすことは決してできない。それでも無茶をするつもりなら、辞めた方がいい」
「ハッ! 誰が自分みたいな得体が知れないもんの言うことを聞くっちゅーねん」
「別にわたしはそれでも構わないけど、そんな不器用な護り方しかできないほど“彼ら”が大事なら、大人しく聞き入れた方が身のためだと思うよ」

 さんが忠告に聞こえる言葉を言うた途端、今度は一斉に物音が止んだ。
 代わりにオネェさんの視線はますますキツなって、さんのことを射殺さんばかりに睨み付けとる。視線の先におる訳やない俺までぞっとする鋭さや。

「……自分、ほんまに何もんや?」
「だから、ただの人間だってば。視えて、聞こえて、触れられて。他より多くを知ることができる。ただそれだけの人間」
「全然“ただの”ちゃうやろ、それ」
「“ただの”、だよ」

 言うて、倒れ込むみたいに隣のベッドに座ったさんの所作はどこか投げやりで、ぞんざいやった。

「目盛り以上の値を計れないように、わたしの力は強過ぎて、誰の感度にも触れない。だから力のない人にアナタたちが知覚できないのと同じで、アナタたちに“わたし”を知覚することはできない」

 そして顔には自嘲と、微かな悲哀。

「知覚できないひとにとって、“それ”は存在していないのと同義だからね。いくら視えて、聞こえて、触れられて。多くを知ることができても、霊的事象に対してわたしができることはないんだよ」
「せやったら、今回のはどういうことやねん。自分が何したかまでは知らんけど、シライシくんに群がっとった女共が何で影も形もなく消えとんのや。自分が何かしたとちゃうんか?」
「これはアナタたちにも言えるけど、アナタたちに知覚できないだけで“わたし”は存在しているからね。受動的にはなれなくても能動的にはなれるから、首を突っ込むくらいならできるんだよ。だけどそんなことをすれば強い反発を受け、無関係の人を巻き込んで事態を悪化させかねない」

 そこでさんは俺を見た。

「今回で言えば、被害者は君。図らずもわたしが介入したことであの通り彼女たちは発狂し、その気に触れた君は彼女に見つかった。それも自分以外の複数の女性がきっかけという、最悪の形でね」
「……どういう、意味や……?」
「言ったでしょう。「君が余程のご馳走なのか、彼女は君を諦めていないどころか捜している」って。それだけ君に執着していた彼女には、君が自分以外の女に気を持たれて平然でいられるほど、血塗れだったあの姿の通り理性なんて微塵も残されていなかった。君に触れていたそっちの耳がいい彼が同性だろうと関係なく嫉妬して、殺そうとしたくらいね」

 さんの視線が俺のおるベッドに座っとる光を見やる。
 脳裏に蘇るんは、あの時咄嗟に光を突き飛ばしたほんまに直後、光がおった場所に振り下ろされた包丁やった。それもただの包丁やなく、酸化して赤黒く変色、凝固した血も毒々しいまでに真っ赤な真新しい血も、付着したままの包丁や。同時に思い出された女の笑みに、改めて背筋がぞっとする。
 光も同じことを思い出したんか、顔から血の気が引いとった。

「……だから、わたしには誰も救えない。仮に救うことができたとしても、わたしは誰も救わない」

 そんな俺らを見て、さんはあの時と同じ、ともすれば泣き出す寸前にも見える表情で、あの台詞を繰り返した。

「何が“だから”なんか、意味が、わからんのやけど……」

 それに今度は言葉が間に合う。
 あの時、形になり切らんで消えてもうた言葉とは違たけど。

 するとさんは徐に手を上げて、ベッドの頭側が接しとる壁を指差した。
 せやけど、そこには生成り色の壁以外に、これといったもんは特に何もあらへん。精々、年代を感じさすシミがあるくらいや。

 そう思て、今朝にも似たようなことがあったんを思い出した。反射的に身体が強張る。

「たった今、昨日わたしと君が会ったあの路地で、あの男の子と同い年の女の子が死んだよ」
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