そこは普通乗用車から大型トラックまで、とにかく車の通りが多ければ人通りも多い、大きな交差点やった。
 俺はそこで信号待ちをしとった。
 道幅の広い車道はその交通量に比例して青信号の時間が長く、嫌いなはずの待ち時間が、せやけど不思議と気にならんで。信号待ちの人ごみにまぎれ、向こう側の歩道で同じく信号待ちしとる人ごみを ――― 先頭の列におる女の人を、俺は見つめとった。
 理由はわからんけど、何故か目が離せなかったんや。

 女の人は左腕にはめた時計を頻りに気にして、何や急いどる様子やった。せやけど切迫しとるっちゅーほどではない。
 不思議に思とると不意に、時計を見とった女の人の視線がその先へ滑る。そして甘く頬を緩めた女の人は、右手の指先で左手の指を ――― 薬指を撫でた。

 ああ、ナルホド。

 その何気ない仕種に、女の人が急いどる理由も、これから向かおうとしとる先におるのが誰なんかも、察しがつく。
 中坊ながら生意気にも微笑ましい気持ちになって、俺までつい頬が緩んだ。

 ――― ふと、そんな女の人の肩越しに見えた別の女の人が目に止まった。
 幸せの絶頂にとろける女の人が白い光りなら、その女の人はどろどろに淀んだ黒い闇。失礼な話、ぱっと見でそんな印象を受けた。
 多分、綺麗に着飾っとる女の人とは違て、その背後におる女の人は髪も服もぐしゃぐしゃで、あまりに見窄らしい恰好をしとったからやと思う。正直人前に出る恰好とちゃうし、悪い意味で人目を惹いてまうほどや。せやのに人ごみの誰一人として、それを気にしとる様子はあらへん。

 嫌な感じがした。
 首筋をざわざわとした感覚が這う。

 ――― あぶないっ!!!

 瞬間、声が聞こえた。それも耳やなく敢えて言うなら身体で聞いた、俺の内側から響いた声や。
 若干舌足らずで幼い、せやけど幼さに似合わん焦燥感に満ちた、どこかで聞いたことのある気がする声やった。

「これ以上は視ない方がいいよ」

 そしてまた、今度はちゃんと耳が、あの淡々とした声を拾た。
 同時にバチン、と。まるでブレーカーが落ちたみたいに一瞬で視界が、世界そのものが真っ暗闇に包まれる。――― ドンッと、実際はこんな生易しいもんやなかったけど、そういう鈍い音が聞こえたんは、その直後やった。続け様にクラクションと急ブレーキの音、悲鳴、ざわめき、叫び声。思えばさっきまで全く聞こえてへんかった音や声が一気に飛び込んでくる。
 ごちゃごちゃに入り混じってよう聞き取れへんかったその奔流の中、そんでも最後に聞こえた声だけは唯一はっきりと、俺の鼓膜に焼き付いた。




































































































「あんただけが幸せになるなんて、絶対にゆるさない」



































































































 はっと目が覚めた。そう、目が覚めたんや。
 つまり俺は今まで眠ってたっちゅーことで、飛び起きて見回した周囲の光景は交通量の多い交差点やなかったら、そもそも屋外ですらなかった。生成り色のカーテンに囲まれたベッドの上や。
 そのことにほっとする。
 せやけど心臓は耳元にでもあるみたいに喧しく鼓動を続けとるし、今見たもんを夢と言うにはあまりにリアル過ぎるっちゅー話や。見窄らしい恰好をしとった女が発したと、確証がないのに絶対的な確信を持てる呪詛が耳にこびり付いとる。

 それを聞きたなくて、何の効果もないとわかっとっても耳を塞ぎ、立てた膝に顔を埋めて蹲る。
 そうする他に、俺には自分を護る術が思い付かんかった。

「君は本当に、厄介な素質にばかり恵まれてるね」

 でもそんなん、呆れたような困ったような、曖昧な色の滲む声が聞こえた瞬間、一瞬で払拭されてもうた。
 弾かれたように顔を上げれば、声音と同じ曖昧な表情を浮かべとるさんが、相変わらず一切の気配もなく、いつの間にか開かれたカーテンに手を掛けて立っとった。

「それにしたって、今回のは流石にプライバシーの侵害だよ」
「っ、……、さん……」
「……なに?」
「お、れ……生きとる、……か?」

 訊けばさんはきょとんと瞬いて、曖昧な表情で笑た。

「わたしの姿が視えて声が聞こえているのなら、少なくとも死んではいないよ」

 妙な言い回しやったけど今はそんな疑問より安堵の方が勝って、身体の強張りが解けるのと同時に涙腺が緩んだ。大きな一粒が零れたのをきっかけに次々涙が溢れて、止まらん。昨日に引き続く号泣や。中学生にもなってとか男の癖にとか、そんな体裁なんてどうでもええ。
 そもそも生きるか死ぬかの瀬戸際を前にして、プライドとか見栄とかそんなんはちっぽけ過ぎる。

 生きたいと思た。そして実際、俺は今も生きとる。生きられとる。
 それがどんだけ奇跡的で幸福で、尊いもんなんか。今まで意識せんで当たり前に享受しとったそれらを、昨日今日のたった二日間で俺は痛感した。

「養護教諭は軽い脳震盪だから問題はない仰ってたけど、どこか他に痛むところはある?」
「……っ、せな、か……ひくっ……ズキズキ、しよる」
「丁度机の角に突っ込んだからね」

 またいつの間にか近付いてベッドのすぐ脇に立っとったさんが、嗚咽のあまりしゃっくりまで出よる俺を慰めるように、傷を避けて頭を撫でてくれた。
 そしてその手は視界を遮るように頭から瞼へ下りて、止まる。

「……ありがとう。君が咄嗟に避けてくれなかったら、今頃ベッドの上にいたのはわたしの方だった」
「べ、つに……そん、っ……さ、んに、っく……助けてもろた、ことにっ……比べた、ら……」
「――― 君は」

 どういう感情がこもっとるかわからん声は、最後まで形にならんで消えた。
 目隠しが外されてさんを窺うても、昨日知り会うたばかりやけど、いつものと言えてまうほどよう見とる曖昧な表情からは、何も読み取れへん。

「全部話すよ。君たちが知りたいことを、わたしが知る限り全部」

 そして、唯一ほんの少しの感情を滲ませて揺れとるように見えた瞳を隠すみたいに目を伏せたさんは、薄く吐息の混じった言葉を静かに告げた。
013*120710