「今日死ぬ君に、明日以降へ繋がる話をしても無駄でしかない。だから君に語ることなんて一つもない」

 そう淡々と重ねられた言葉はどこまでも残酷で、絶対的な言霊を持っとった。

 そんなん、ほんまはすぐにでも否定して、笑い飛ばしたかった。それにオネェさんは一週間て。せやけど今目の前に視えとる光景 ――― 黒くて真っ暗でおどろおどろしいもんが、いつの間にか脛の中間まで白石の姿を覆い隠しとる状態は、さんの言葉を否定するよりも肯定する要素しか持っとらん。
 俺は絶句するしかなかった。
 さっきまでいきり立っとった光も何が原因なんか蒼白した顔で黙りこくっとって、状況についてけてへん二年一組の人間も教科担任も沈黙しとる。

「……何を、言うとんねん」

 唯一、その言葉の矛先になっとる白石だけが、少し掠れた声でさんに応酬した。

「言葉通りの意味だよ。君は今日死ぬ。そんな存在に仔細を話すだけ、時間の無駄でしかない」
「は、はあ? 何でそんなん言い切れんねん。訳がわからんわ。それとも話を誤魔化しとるつもりなんか?」
「別に君の理解なんて求めていないし、誤魔化しているつもりもないよ。わたしはただ事実を述べているだけ」

 ――― ああ、言ってる傍からまた一歩、死に近付いたね。

 さんがそう言うた直前、白石を覆い隠すソレは波打つみたいに揺れて、一層濃く大きなった。
 その瞬間、遠退いとった恐怖が、さんの存在があっても関係なしに襲い掛かる。息が詰まった。瞬きを忘れた。唇が、手が、足が、全身が震える。

 この感覚を、俺は知っとる。

「……もういいでしょ。君がどう思おうと、わたしには何も話す気がないんだから、この話はオシマイ。君たちも、まだ授業中なんだから自分のクラスに戻りな」
「待ちや! 何勝手に終わらせてっ、話はまだ ―――」

 そして、無理矢理話を終いにしたさんが俺らの方を振り返ったのを引き止めようと、白石がさんの肩を掴んだ、瞬間やった。

 いい゛い゛いやや゛やや゛や゛ああああああ゛あ゛ああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ゛ああああ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああ゛ああ゛あ゛ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あああ ――― !!!

 絶望。悲愴。憤怒。困惑。嫉妬。どれともつかへん、どれとも取れる複数の女の声が何重にもなった絶叫が、鼓膜を突き破って脳髄にまで響いた。
 窓ガラスが一斉に砕け散って、蛍光灯が次々破裂する。不自然に吹き付ける体感では生暖かいのに背筋が震えて鳥肌を立たせる風が、壁の掲示物を激しくはためかせ、机や椅子が局地的な地震にでも見舞われたみたいにガタガタと揺れ動く。教室中の至る所で悲鳴が上がって、室内は一瞬で混沌と化した。正に阿鼻叫喚や。
 同時に耳を押さえて蹲った光を、降り注ぐ破片から咄嗟に庇った俺は、すぐさま顔を上げて息を呑んだ。
 いくつもの黒くて真っ暗でおどろおどろしいもんが、時折人の顔を形作りながら、それこそ狂ったように教室中を暴れ回っとったんや。それも全体の反応からして教室におる全員がソレを視認し、更には絶叫が聞こえとる。

 斯く言う俺にも聞こえへんはずの“声”が、最初の強烈なもんほどではないけど、それでも耳を塞ぎたなるくらいには聞こえとる。
 俺でもそんなんなんや。元から“声”が聞こえるいう光には、この絶叫がどれほど辛いもんか俺には想像もつかん。
 歯を食い縛って耐えとる光に何もしてやれへん自分がもどかしかった。

「――― ダメ!!!」

 瞬間、絶叫に支配された鼓膜でもはっきり聞こえたさんの声にはっとして、そちらを見た。

 黒くて真っ暗でおどろおどろしいもんが空中で暴れ回っとる代わりにソレが晴れて、白石の姿を昨日振りにようやく目にできとることに、驚く間もあらへん。
 規則性もなく暴れ回っとったソレが全部、一斉に、同じ方向へ ――― さんの肩から手を放して後退りする白石に向こて、四方八方から襲い掛かるんを、俺は見とることしかできひんかった。

 けどソレが白石に触れる寸前、壁になるみたいにさんが飛び込んで、飛び付かれた衝撃に耐え切れへんかった白石諸共ひっくり返る。
 白石に覆い被さる態勢になったさんが背中を丸めた。

 いいい゛いい゛いいいい゛い゛い゛いやや゛や゛や゛やや゛やや゛や゛や゛ああ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛あああああ゛あ゛ああああ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛あ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああああ゛ああ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛あ゛あああ ――― !!!

 そして、さっきより強烈な絶叫がまた、鼓膜を突き破って脳髄にまで響いた。

 しかも今度の絶叫は俺でさえ耳を塞がずにはおれへんくらい、痛いなんてもんやあらへんほどずっと強烈やった。けど鼓膜やなく頭ん中に直接響く絶叫に対して、耳を塞いだところで何の慰めにもならん。
 光を気にする余裕も、白石がどうなっとるか確認する余裕も、一切あらへん。自分のことだけで手一杯やった。

 でも、終わりの訪れは唐突やった。


「五月蠅いっ!! 彼の存在も魂も、すべては彼自身のものだ!! 諦めて今すぐ在るべきところに還れ!!!」


 多分、怒りっちゅーのが一番近い感情やったと思う。

 やっぱり絶叫の中でもはっきり聞こえるさんの声が、そう正に吠えた瞬間、何かが弾けるみたいな音がした。同時にほんの一瞬だけ、瞼を閉じとっても刺すように眩しい光りが起こった。そしてピタッと、絶叫が消え失せる。打って変わって嘘みたいな静寂が鼓膜を支配した。
 一体何が起こったんか、訳がわからんかった。反響が残って上手く働かん頭でのろのろと顔を上げる。
 ぼんやりと見回した教室にはあの黒くて真っ暗でおどろおどろしいもんは影も形なくなっとって、窓が全部割れとったり蛍光灯が見るも無残な有り様になっとたりとぐちゃぐちゃで、まるで嵐が去った後みたいに凄惨な状態になっとった。それでも取り敢えず、平穏と言える空気だけは取り戻しとる。ただ理解が追い付かへん。

 そんな中、誰よりも困惑を浮かべとるのは他でもないさんやった。
 せやけどすぐ何かにはっとして、白石の頭を抱えたまま俺らを ――― 俺を、振り返る。

「こっちに来て!」
「……へ?」
「早くっ!!」

 突然何を言い出すんか、まだ回っとらん頭では飲み込めへんで間抜けな反応しかできひん俺に対して、さんの様子は切迫しとった。それがますます理解できんくて、反応もできひん。
 そんな俺を我に返らせたんは、すぐ傍におる光やった。
 腕を掴まれ爪を立てられる痛みにそっちを見れば、絶叫は去ったっちゅーのに未だに耳を押さえて蹲る光が、蒼褪めた顔で何かを訴えようと必死に唇を動かしとる。

「く、る……、あ……ん、なが……!」
「な、何やて?」
「はよ、にげ……っ!!」

 掠れた声で光が言い切るのを聞き終えられたんかどうか、俺自身にもわからへん。
 ぞわり。唇が、手が、足が、全身が、また震えた。

 咄嗟に、掴まれとる腕を振り払うようにして光を突き飛ばした。――― ほんの一瞬遅れて、赤黒いもんが光のおった場所へ縦に走る。
 そしてその先端から、切っ先から、同色の液体が散った。

――― ぴちゃん

 赤黒く染まるワンピースの裾から鉄錆に似たにおいを滴らせるあの女が、湿り気を帯びた乱れ髪の向こうでニタリ、笑たような気がした。――― 背筋を舐めた悪寒に、俺は反射的に横へ転がった。そしたら今度は俺のおった場所を、赤黒いもんがこびり付いとる包丁も持った女の手が薙ぐ。
 どくん。どくん。まるで耳元で鼓動しとるみたいに、心臓が喧しく騒ぐ。
 大して動いてもへんのに息が上がって、口ん中はカラカラや。喉がくっついたみたいに上手く呼吸できひん。

「忍足謙也!!!」

 そんな俺を叱咤するように、さんの声が響いた。

 それもずっと「君」呼びやったのが初めて名前を呼ばれて、その驚きもあった。見ればさんが俺に向こて手を伸ばしとって、そこからはもう考えるよりも先に身体が動いた。
 また振り下ろされた包丁を紙一重で避けた弾みで、床を蹴る。せやけど女に向けた背中をまた悪寒が舐めて、足がもつれた。そんでもさんへ、必死に手を伸ばし ――― 指先が、絡む。

「――― 消えて!!」

 瞬間、何かが弾けた。その音が手みたいに背中を押したのと元の勢いが相俟って、加速する。
 せやけど世界はスローモーションに見えた。
 正面には俺やなく、俺の向こう側を睨み付けとるさんと、そのさんに頭を抱えられとる白石がおる。マズい。瞠いた目でこっちを凝視しとる白石と、目が合うた気がした。咄嗟に身体を捻る。

 頭とか背中とか、どことも言えへん箇所を襲った痛みを最後に、俺の意識は暗転した。
012*120630