「――― 言うんはどいつや!?」

 衝撃的な出来事の連続に時間の経過が曖昧になっとるけど、少なくとも授業中なんは間違いないタイミングや。
 けどそんなんお構いなしに一組の教室の戸を開け放った光は、第一声でそう叫んだ。

「転入生のはどいつか訊いとんねん、はよ名乗り出て来んかい!!」
「待て言うとるやろ光! 一先ず落ち着けっちゅーねん!!」
「どアホ! 状況わかっとるんか!? 落ち着ける訳ないやろ!!」

 授業を中断させた挙句、中に乗り込もうとまでする光をせめて引き止めるのには成功したけど、事態は芳しいもんやない。
 荒々しい口調の通り、今までに見たことないくらい気が立った光は冷静さに欠けとって、それこそ状況を把握しとらん。正直どうしたらええんか扱いに困る。

「自分ら授業中にいきなり何やねん?」
「――― っ……、しらい、し……ぶちょ、……?」
「おう、財前。朝練に来んかったから心配しとったけど、元気そうやな。安心したわ」

 けど、そんな光の興奮は、他でもない渦中の当人にあっさり諫められた。

 さんのクラスに乗り込んだはずやのに、まさかの白石本人が登場したことで完全に虚を衝かれた光の身体から、ふっと力が抜けた。
 せやけど俺は、その肩から手を放せへんかった。寧ろ、光の抵抗を抑えてた時以上に力がこもってまう。
 聞こえた声と途切れ途切れながら光が呼んだ名前から、そこにおるんが白石なんは間違いあらへん。でも俺には、黒くて真っ暗なおどろおどろしいもんが席を立って俺らに近付いて来たようにしか映らんかった。
 背筋を舐める悪寒に全身が粟立つ。今にも飛び出してまいそうな悲鳴を、光に縋ることで必死に堪えた。

 そんでも、無理やった。気のせいやなかったら今朝より色が濃くなっとるばかりか、白石の上半身を覆っとったのが膝まで範囲を広げとるソレが、まるで手でも伸ばすみたいに俺へ向かって来たんや。
 あの女に遭遇した時かそれ以上の恐怖に身体は震えんのに、自分の意思では指一本動かせへん。瞬きも呼吸も、できんひかった。ヤバい。ほんまにヤバい、ヤバいヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい ――― !!!

「わたしが転入生のだけど」

 そん時やった。あの淡々とした調子の声が聞こえて、その途端、嘘みたいに息が楽なる。瞬きもできたし、指一本どころか全身が動かせるようにもなった。

 立ち上がったさんが、椅子が飛び出したままになっとる隣の席の椅子を仕舞い、その空いた通路を抜けてこっちにやって来ると、俺らと白石の間に立つ。
 別に何ら特別なことない一連の動作やったけど、何かが引っ掛かった。

「……自分、部長の隣の席なんか?」
「部長? ……ああ、彼のこと? 確かに、わたしの席は彼の隣だけど、それが何か?」
「何か、やと……ッ!!」
「――― ひかるっ!!?」

 まだ少し何かが引っ掛かったけど、光の言葉に違和感が解ける。せや、光が言う通りさんが椅子を仕舞ったあの席は、黒くて真っ暗なおどろおどろしい塊 ――― 白石が立ち上がった席や。
 二人が同じクラスと気付いたんはついさっきやったけど、まさか席が隣とまでは思わなくて驚いたのも束の間、掴んどる光の肩に妙な力が入ったのを感じて、俺は咄嗟に力を強めた。瞬間、光の腕が明らかな攻撃の意思を持って振り上げられる。けど寸前の拘束が幸いして、その腕が振り下ろされることはなかった。
 せやけど状況はどう見ても暴力未遂。授業中に他学年のクラスに乗り込んだ挙句、女子に拳を上げた光のが圧倒的に不利や。俺らの闖入にざわめいとった教室が、また別の意味で騒がしなる。

「自分、あの狂った女から謙也さんのこと助けたんなら視えとるやろ!? 謙也さんのことは助けときながら、隣の席の部長のことは何で助けないんや!!?」
「……それを君が問うの?」

 未遂とはいえ殴られそうになったっちゅーのに、顔色を変えるどころか身じろぎ一つせんかったさんが、心なし温度を下げた声音で言うた。

「彼、いや彼女? ……どっちでもいいか。兎に角、ゆーじってひとにも言われてたけど、どんな理由があれ最終的に彼を ――― “彼ら”を見捨てたのは、君じゃない
「っ……!?」
「それを棚に上げて、そんな君と、同じ選択をしたわたしが、わたしだけが、他でもない君に、責められる。……随分と身勝手なんだね」

 さんがわざとらしく言葉を区切って一言一句を強調する度に、掴んどる光の肩が強張ってく。
 光のその反応もやけど、何よりもさんの言うてることが俺には引っ掛かった。けどその引っ掛かることがあまりに多過ぎて、頭が追い付かへん。

「そもそも根本的な誤解をしているようだけど、わたしは彼を助けこそはしても、救えてはいない。わたしにできるのは、ほんの一時まやかしの安寧を与え、絶望を深くするだけの所業。……わたしには誰も救えない。仮に救うことができたとしても、わたしは誰も救わない」

 そう言うて俺を見たさんの目には、淡々とした無情な台詞とは裏腹に痛々しさが満ちとった。
 正直、さんがそんな表情をしとることが俺には衝撃的やった。恐ろしいことをさらっと言うし、まるで自分を“悪”にしたがっとるようにしか感じられへん否定的な問い掛けばっかしてきたさんが、まさかそんな、ともすれば泣き出す寸前にも見える表情をしとるなんて。意外やった。

「……なんて、こんなわたしも、君にとやかく言えた立場じゃないけど」

 そんなさんに、何か言わなあかんと思った。
 けど何を言えばええんか自分でもわからん上に、まとまるより早く、目を伏せたさんがその態度で話を終わらせてもうた。教壇で所在なさげにしとる教科担任に「授業中にお騒がせして、すみませんでした」と一言詫びて、俺らに背を向ける。

「ちょお、待ってや」

 せやけど俺らに背を向けた先、つまり今まで背中を向けとったところにおった白石が、そんなさんの行く手を遮るように立った。
 その途端、さんの登場に持ってかれとった意識が、白石の姿を覆い隠す黒くて真っ暗なおどろおどろしいソレを嫌でも捉えた。同時に全身を悪寒が駆けて、あの恐怖が蘇る。けど俺らの間にさんがおるっちゅーだけで、不思議と金縛りに遭うほどの恐怖は感じひん。
 そんでも、視覚的には充分な恐怖もんや。俺に向こうて真っ直ぐ伸びて来た時とはちゃう、蠢きに釣り合わん奇妙な動きが尚更、恐ろしさを煽る。――― そこでまた、未だ残る違和感が引っ掛かった。けどやっぱり、その違和感が何かまではわからへん。

「助けるとか助けへんとか、自分ら一体何の話をしとるん?」
「……君に言う必要がないことだよ」
「そんなん言われて、はいそうですかて納得できる訳ないやろ」

 白石が今どんな表情をしとるんか、白石の姿を認識できひん俺にはわからへん。
 ただその声は今までに聞いたことないほど硬くて厳しくて、自分に向けられとるもんやないとわかってても恐ろしく感じた。

「大体、狂った女から謙也を助けたて一体どういうことやねん? まさか今朝二人が手繋いで登校しとったっちゅうことや、謙也が人の顔を見るなりさんの名前を絶叫しながら二度も逃げ出しよったことと、何か関係があるんとちゃうんか?」
「……君が気にすることじゃない」
「ああ。確かに今朝、二人が付き合うとるのか訊いた時は、そう言われて人の色恋に他人が干渉するもんやないと思たから引き下がったけどな。謙也は同じテニス部の大事な仲間で、ダチや。大事な後輩のことかて訳のわからんことで責められて、剰え俺自身も知らんところで話題にされとる。これでおいそれとまた引き下がれる訳がないやろ」

 けどそない恐ろしさ以上に、自分のその思考が恥ずかしくてたまらんなった。
 いくら自分が今どんだけヤバい状態か知らんちゅーても、他人のことばっか心配しとる ――― してくれてる白石に対して、何ちゅーアホなことを。

「……わかった、なら言い方を変える」

 言うて、ため息をついたさんが改めて白石と向き合う。

「今日死ぬ君に、話すことなんて一つもない」

 そして恐ろしい以上に残酷な言葉を、まるで瑣末なことであるかのようにさらっと、告げた。
011*120619