せやけど絶句も束の間。一転して眉を釣り上げたユウジはオッサ……オネェさんに殴り掛かった。
 どうやらオネェさんに何や言われて激昂しとるようやけど、“声”が聞こえへん俺にはユウジの一方的な怒鳴り声しかわからんから、内容は想像するしかあらへん。ただ触れられないとわかっとっても殴り掛からずにはおれへんくらい、オネェさんの発言がユウジの逆鱗に触れるもんやったっちゅーことは確かや。
 正直、絶句するユウジに何て声掛けたらええんかわからんかったから、場の空気が一変したのは有り難いんやけど。
 視えとらん光に冷たい目されて、最終的にさっきと同じで一人疲れ果てるユウジの姿に、何とも言えへん気持ちになる。

「それはそうと」

 そんなユウジを尻目に、光は言うた。

「はよとか言う人のとこ行きましょ」
「え、せやけど……」
「ユウジ先輩のことなら気にせんでもええでしょ。取り憑かれとる言うても、今まで問題なくやっときとるんすから」
「ちょお待て。今のは聞き捨てならへんぞ! どこが問題ないねん!? 寧ろありまくりや!!」
「言うてもそんなん、白石部長に比べたら可愛いもんやろ」

 瞬間、息を呑む音が聞こえた。同時にユウジの顔からはほんの一瞬で血の気が失せて、唇が戦慄わななく。よく見れば身体も震えて、まるで何かに酷く怯えとるようやった。
 ユウジのこの急変に俺は戸惑うだけやったけど、光の方は違た。元から鋭い目付きに険までこめて、非難がましい視線でユウジを射抜く。

「ユウジ先輩、そういえばさっき言うてましたよね。自分は目が合うた奴に問答無用で取り憑かれてまうって」
「……」
「つまり、視えとるっちゅうことですよね。視えな目なんて合いませんし。それに野太いカマ言葉と会話が成立しとるっちゅうことは、“声”も聞こえとるんでしょ」

 ユウジは何も言わんかった。俯いて、自分を抱くように左手で右の二の腕を、手も腕も白なるほどの力で握っとる。
 無言は肯定の証いうけど、そんな態度のがよっぽど如実やった。何より光の指摘は整然として、筋が通っとる。
 確かに視えない相手と目なんて合うもんやないし、聞こえへん“声”に反応して激昂できるもんともちゃう。どれも視えとるし聞こえとるからできることや。

「せやったら白石部長の件、前から知っとったはずっすよね。俺には“声”だけで判断できんかったけど、謙也さん曰く部長の姿を覆い隠しとるおどろおどろしい、聞いただけでもヤバいもんが視えとったはずや。それを見て見ぬ振りしとったんすか」
「……、い…………ろ」
「何やて? はっきり言うてください」
「――― 仕方ないやろ!!!」

 目付きと一緒でもともと棘のある口調がますますキツなって詰問する光に、ユウジは吠えた。

「俺かて何とかできるもんやったら何とかしとるわ! せやけど俺はただ視えて聞こえて、取り憑かれ易いだけの人間や。そんな俺に一体何ができるっちゅーねん!?」
「それは……」
「大体“声”が聞こえるんやったら、自分かて前々から、白石がいろんな女仰山くっつけとるのに気付いとったはずやろ。それを無視しとった自分にあれこれ言われとうないわ! 自分の不甲斐なさを人に八つ当たりすんな!!」

 瞬間、光は言葉だけやなく息まで詰まらせたみたいやった。今さっきまでの勢いが嘘みたいに黙りこくって、泣きたいような悔しいような、それとも歯痒いような。何とも複雑な表情をしとる。
 それは荒々しい語気に大きく肩を上下させとるユウジも同じで、似ても似つかへん二人の顔は、そんでも鏡映したみたいにソックリやった。

「――― あーもー、アホばっかや」

 また漂う居た堪れへん空気にどうしたらええんか、微妙に蚊帳の外扱いされとる俺が困っとると、第三者の声が割り込んで来た。
 せやけど実際この場におる人数は増えとらんし、寧ろ減っとる。そもそも、声の主は得意のモノマネで声色を変えとる当事者の片っぽや。
 これがほんまに当事者本人やったら空気が読めなさ過ぎやけど、実際にはいつの間にか視界から欠けとる存在がユウジの身体を借りとるだけやと、視えへん光にもわかるやろっちゅーくらい本物のユウジとは雰囲気がちゃう。それこそわざとらしいくらい、あからさまに。

「自分ら、ほんまにアホやな。どアホや。男やったら過ぎたことをグチグチ言うとらんで、シャキッとせぇや」
「……オカマが何やねん、いきなり」
「じゃかぁし、そら今は関係ないやろ。あんま舐めたこと言うとると、二度とアホなこと言えへんように掘ったるぞ」
「……」
「宜しい。そもそもシライシくんの状態に気付いとったとか見て見ぬ振りしとったとか、そんなんは大した問題やない。寧ろアンタらの行動は正当やった。憑かれ易いこの子は特にな」

 何を、或いはどこを掘るんかはわからんけど空恐ろしくて聞けへん脅し文句に光が沈黙すると、オネェさんは満足げに頷いた。そして居た堪れへん空気を作った原因の話題をバッサリと一刀両断してまう。
 その表情は厳しくて、せやけど「この子」言いながらユウジの心臓の辺りを撫でた手付きは慈しむみたいに優しかった。

「ただ視えたり、“声”が聞こえたりするだけでしかないアンタらに、アレはどうこう出来る次元のもんやない」
「……せやからて、俺らの行動が正当化される訳でもないやろ」
「どアホ。ワタシが言うとんのは倫理的な正当性やなく、人間の本能的な正当性や。アレは死んどるワタシでもヤバいと思う存在やぞ。生身のアンタらが危険を感じるんも、生存本能が働くんも当然や」

 至極当然のことを語るみたいにオネェさんは言うけど、ちょお待て。

「ほなら、そない危険なもんに取り憑かれとる白石は、どうなん?」
さあ、長くてもあと一週間くらいとちゃう? もともと抵抗力が強いみたいやけど、そんでもアレに対しては精々その程度が限界やろ。一ヶ月近くもよう保ったもんやで」

 やっぱり至極当然のことを語るみたいにオネェさんは言うた。せやけど、その内容を当然とするのはあまりに受け入れ難い。
 何が長くてもあと一週間なんか。何が限界なんか。何がよう保ったんか。理解が追い付かへん。いや、理解したない。

「――― ふざけんなっ!!!」

 瞬間、身体の主導権を奪われとったはずのユウジが、またも吠えた。
 同時に、ユウジの中からオネェさんが弾き出される。

「自分、前に問題はないから放っといて大丈夫言うてたやろ!!? ――― はあ!? つまり、それは白石を見殺しにするっちゅーことか!!!」

 “声”が聞こえへん俺にはオネェさんが何て返したのかはわからんけど、ますます眉を釣り上げたユウジの表情から大体の察しはつく。でも、その顔が直後に強張った理由は流石にわからへん。ただオネェさんが尚も口を動かしていくほど、ユウジの顔からは血の気が失せてく。
 流石に心配なって声を掛けようした時やった。
 ガタガタッと喧しい音がして、何かと思た時には、今までずっと黙りこくっとった光がらしくもない慌ただしさで視聴覚室を飛び出した後やった。その動転振りを表すように、光がおった場所から出入口までの直線上にある机の位置がぐちゃぐちゃになっとる。

 それほど慌てて、光は一体どこに行ったんか。
 答は考えるまでもなく出た。

 背中に掛かったユウジの声に立ち止まる時間も惜しく、光を追って俺は走った。すぐ横に階段がある視聴覚室前の廊下に光の姿はもうあらへん。階段を降りとる途中か、それとも既に二年の教室がある階に着いとるんか。二段跳ばしに階段を駆け降りて、目的の階の廊下に出てようやく、光の姿を視界に捉える。
 ここから一組までは正反対や。直線やったら俺の方がギリギリ、いやっ、間に合わへん……!

「待つんや!! 光っ!!!」

 叫びながら、自分がどうして光を止めようとしとるんか、我ながら理解できんかった。
 絶体絶命やった俺の命をほんまにギリギリのとこで救ってくれたさんなら、もしかしたら。そう思うんは確かや。でも。そんでも、この期待は間違いなく裏切られる。最初は予想するだけやったけど、今はそう確信できた。

 やってさっきダチに聞いた時は気付かんかったけど、一組って確か ――― !
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