「――― わかりました。ほな言い方を変えますわ」 お互い無言で見合うこと数分。いや、実際には秒単位だったかもしれん。意外にも先に視線を外したんは光の方やった。 せやけど同時に発された台詞は俺への追及を諦めるもんやなく、事実俺の腕を掴む手の方は外れる気配が全くあらへん。逆に心なしか力が強まって、そして眼光の増した視線が戻される。 「謙也さん、昨日はどうやってあの女から逃げ切ったんすか?」 「――― へ?」 「あない粘着質な女、生きてても死んでても謙也さんにどうこうできるタイプとちゃいますやろ。どうやって振り切ったんすか?」 「ちょ、ちょちょちょっ、ちょい待ち!!」 核心のど真ん中を衝く予想外の台詞を一拍置いて理解した瞬間、それまでの沈黙が無意味なほどあからさまに、動揺が身体にも言葉にも出た。けどそらしゃーないっちゅー話や。寧ろ平静でいられる訳があらへん。 やって昨日、俺は学校を出た最初の時点から一人やったんやで。あの女に遭遇した時かて、辺りには不自然なくらい全く人気がなかったんや。 つまり昨日の生きるか死ぬかの追い駆けっこのことを知っとんのは、あの女に追い掛け回された当事者の俺と、そんな俺を助けてくれたさんだけのはずや。 何も知らんはずの人間が何かを知っとったら、そら驚くのが道理っちゅーもんやろ。 「な、何で光があの女のこと知っとんねん!?」 「そないなこと言うっちゅーことは、昨日何かあったことを認めるんすね?」 揚足を取られて自分の失態に気付いたけど、取り繕うだけ今更や。 沈黙する俺に、光の眼光が少し弱まった。ほんでも腕を掴む力はそのまま。多少力は緩なったけど、相変わらず放す気配がなければ解けるほどの力でもあらへん。 せやけど何ちゅーか、昨日のさんに縋りっ放しやった自分を思い出す感じの握り方をされてて、放して欲しいとか下手なことは言われへんかった。やから手首を捻って、こっちからも光の腕を握り返す。光の肩が跳ねた。一方で俺の動揺はもう落ち着いとる。 「一先ず場所移動せへん? 本鈴鳴ってもうたし、見つかったら面倒やし」 そして光の腕を引っ張ると、光は天変地異の前触れかっちゅーほど素直に従った。 一時間目の授業が始まっとって当たり前に静かな四天宝寺華月の裏手に場所を移して、制服が汚れるのも気にせんで地面に腰を下ろす。ここに来るまでも着いた今も、俺も光もお互い終始無言やった。 ただ光が力を緩めへんから俺の方も何となく放すことができんで、腕を掴む手はどっちもそのままや。……必然的で仕方ないちゅーても、腕を握り合った野郎二人が隣り合って座っとる様は、傍から見たらシュールなんが請け合いの光景やな。 「謙也さんは……」 若干現実逃避に走った思考が、不意の口火と一緒に切られる。 隣を見ると光は俯いとった。身長差もあるけど、立てた膝に埋めがちの顔からは表情が読み取れへん。 「謙也さんは、あいつらが視えるんすか……?」 「……光も、やろ?」 肯定の意味を込めて訊き返すと、俺の予想に反して光は首を振った。 「俺は“声”が聞こえるだけです」 「声……?」 「物心が付く前から、ずっと。最初はただの音にしか思えへんかったんすけど、成長して言葉を覚えてからはそれが音やなく“声”で、俺にしか聞こえてへんことに気付いて……」 てっきり光もあのテのもんが視えるとばかり思てただけに、はっきりした否定と尻窄みになってった言葉の内容に、俺は驚いた。 せやけどそう言われてみれば、あの女然り、昨日今日の往来で目にしたモン然り、俺にはああいう存在が視えるだけやったかもしれん。あの女のワンピースの裾から滴る血と甲高いヒールの“音”は兎も角、“声”までは聞かれへんかった。 ――― いや、視えるだけで充分恐怖やさかい、聞こえなくてええんやけどな。 と、腕を掴む光の握力が増した。 骨が軋むほど強い力は、せやけどやっぱり、昨日の俺を思い出す。縋るような印象を受けるもんや。 俺も少し力を強めて握り返した光の腕は、恐らくは力を込め過ぎとるっちゅー理由やなく、小刻みに震えとった。 「昨日の“声”、今までに聞いた中で一番強烈で、頭が割れそうなくらい、ごっつ甲高い声やったんす。標的にされた奴は絶対に助からへんて、殺されてまうて、疑う余地もあらへんくらい、……狂っとった」 そう語る光の言葉に、あの女の姿が脳裏に蘇る。 服も髪も、全身を滴るほどの血で濡らした姿も、血走った目も。確かにあれは狂っとるとしか言いようがないもんやった。“声”が聞こえるだけや言う光が、それでも感じ取れるくらいに。 何より、往来の地獄絵図の中を平然と歩くさんが「厄介なの」言うてたくらいや。それだけでも、あの女が如何に危険な存在かがわかる。 「そんでも、謙也さんは生きとる」 そこでようやく、光が顔を上げた。 今までに見たことない弱々しさの中に安堵が見える表情やった。 「一体、どうやってあの女から逃げ切ったんすか?」 ループした質問に、俺は腹を括った。 あんなん思い出したないけど、この無愛想で生意気な後輩がこんななるくらい心配掛けてもうたんや。不誠実にはなれへん。 「助けてもろたんや。さんに」 「、さん? そう言えばさっき、そんな名前を絶叫しとりましたけど誰すか、それ」 訊かれて、ふと気付いた。 「さんは……転入生や。夏休み明けから四天宝寺に通っとる言うてたけど、学年とか細かいことは知らへん」 「知らへんて、訊かなかったんすか?」 「訊きたくても訊けへんかったんや」 そう、訊かれへんかった。 ほんまは俺を見殺しにするつもりやったとか、そんな自分を、もっと早く行動しとらんかった自分を、ほんまに恨まへんのかとか。 思い返せばどれも否定的な言い回しで、まるで自分を“悪”にしたがっとるみたいやったさんは、俺に対して一線を引いとるどころか、明らかに壁作って距離を取っとったから。 素直に名前を教えてもらえへんかったことと、自己紹介した俺のことをそんでも“君”呼びし続けとったのが、それを裏付けとる。 多分、そこがさんにとっては境界線なんやと思う。そしてさんには、その境界線を自分を含めた何人に越えさすことも、取り払うつもりもあらへん。そんな確信があった。 せやなかったら、自分を頭から否定するような質問を何度もして来うへんやろ。 あれは寧ろ、わざと自分から恨みを買うて俺を遠ざけようとしてのもんや。そう断言できる。 「……ほな、部長のことは?」 これ以上はさんの話を続けても無駄と思たんか、ため息をついた光は、今度は別の話題を振って来た。 「さっきも言いましたけど、俺には“声”しか聞こえないんで、部長に複数の女が姦しく集っとるっちゅうくらいしか判断つきません。謙也さんの目には、一体何が視えたんすか?」 「何って ――― は? 複数の女? ……ちょお待て。アレ、女やったんか?」 「……どういうことすか?」 「い、いや。俺には白石の姿が全く見れへんくらい、黒いっちゅーか暗いっちゅーか、おどろおどろしく蠢くグロい塊にしか見えへんかったんやけど……」 言った後、俺と光は顔を見合わせてしばらく黙り込んだ。 何を言うたら、何て言うたらええのか、言葉が見つからん。ただ改めるまでもなくあまり ――― いや、かなりよくない状況やっちゅーことは、最初にあの塊を視た時の直感通り、このテの知識がない俺にでもわかる。 そしたら沈黙を破るように、光が徐に立ち上がった。 握られとるままの腕を引っ張られて、俺も同じように立てと促される。 「ひ、光?」 「探しましょう」 「――― へ?」 「せやから、とか言う人を探しましょう。あの女から謙也さんのことを助けたんなら、部長のこともどうにかできるはずや。そうでしょ?」 早口に、ますます強く腕を引っ張って急かす様子が、いつも冷たいくらいに冷静な光の焦りと動揺を物語っとる。 せやけど俺には、俺を助けてくれたさんが、今度は白石を助けてくれるとは到底思えへんかった。 やってさんは、ほんまに俺を助ける気があったんならもっと早くに手を打ててたて、そう言うとった。 つまりそれは裏を返せば、さんはその早い段階で、俺の身に起こることを察知しとったっちゅーことになる。多分、さんにはそういうんを感知する力があるんやろ。根拠がないのに確信できる、あの絶対的な安心感みたいな力が。 そんなさんが、白石を覆っとるアレに気付いとらん訳があらへん。――― いや、絶対に気付いとるはずや。 だけど何もしてへん。見て見ぬ振りしとる。俺の時みたいに。 そう考えたら、自分の内側でドロリと醜い音がした。 007*111003
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